第118号:アテネで、オリジナル・マラソン・コースを走る・・・「走ることについて 語るときに 僕の語ること」
2007年10月に単行本化された村上春樹著「走ることについて 語るときに 僕の語ること」を今さらながら読んだ。最近参加している読書会のメンバーの方の話に出てきて、読んでみようと思った。
いまから15年以上前に、村上さんが「マラソン」をテーマに各地のレースに出た話やトライアスロンの大会に出た話が書かれており、その中に時折、哲学的とも言える村上さんの経験則が書かれていて、それを読みながら拾っていくのがなかなかいい。
真夏のアテネからマラトンまでのルートを走ったという。マラソンの発祥となったオリジナル・マラソン・コースの逆ルート。実際は、42.195kmよりも短いルートを走ってしまったようだが、それは大きな問題ではない。
その道の名は『マラトン街道』。名前を聞くと一度は行ってみたくなるが、今は大型のバスやトラックがかなりのスピードで走る幹線道路といった風情のようだ。写真も掲載されているが、その当時の村上さんの走る姿は精悍でかっこいい。
この本を読んでいても、私にはまだまだ実感できないことが多いが、人は山があれば登りたくなるように、なぜ走るのかということを思わず考えてしまう。
この本の中に、こんな言葉があった。
(中略)
大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは、往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。
マラソンだけでなく、あらゆることに通じる哲学だと思った。
つい最近は、何でもコスパ重視みたいなことを言ってしまうが、そうなんだよ、効率の悪い営為でしか得られないものってあるなあと、敬愛する村上さんに書かれてしまうと素直に受けとめる自分がいる。
走ることについて 語るときに 僕の語ること / 村上 春樹著
東京 : 文藝春秋 , 2010.6
p262 , 16cm
第117号:先生との出会いの鎌倉の浜辺・・・『こころ』
夏目漱石の『こころ』は、たしか高校1年か2年のときの現代国語の教科書に三部構成のうちの第3部の「先生と遺書」だけ掲載されていた記憶があります。一部抜粋といっても、当時の私は本なんて全然読まなかったので、辟易するほど長いと感じたことを覚えています。
授業では、第3部だけ読んだので(第3部は、確かに核心的な部分ではあるけれど)、おそらく前の部分の説明もついていたと思いますが、全くといっていいほどその背景や周辺的知識は記憶に残っていませんでした。
今回読んで、あらためてディテールが浮かび上がってきました。
主人公「私」と「先生」の出会いは、鎌倉の海でした。本文でも由比ヶ浜(由井が浜では原文記載)にホテルがあったとあり、その近辺の浜辺で「私」が「先生」を数回見かけ、先生の落とした眼鏡を拾ってあげ、先生を追って海に入って泳いだところ、先生から声をかけられて、はじめて言葉を交わします。
本文からと全集の解説から読み取ると、明治後期にそのホテルというのは「海浜院ホテル」のことで湘南唯一のシーサイドホテルだったようです。もともと西洋風の保養のためのサナトリウムだったこともあり、ホテルになってからは外国人にも好まれ、大正時代に「海浜ホテル」という名前に変わって、大規模改装して人気があったようです。
鎌倉は、明治の時代も素敵な避暑地だったのね、と妙に納得し、今ほどに賑やかではないけれど、「先生」や「私」やのように一夏をこの地で過ごす人が当時も訪れていたことを想像します。
そして、今回30年以上ぶりに読んでみて、いろいろなものが私の中に飛び込んできて、「さすがだわ。夏目漱石。」と唸るほどでした。
時代背景としては、長く続いた江戸が終わり、武家が中心となっていた封建的な時代の終焉と天皇制に変わり近代的国家を歩み始めた新旧入り交じる価値観の混沌とした時代です。そういう時代であるからこそ、「明治の精神」という言い方で表現されるのかもしれません。
しかし、現代人にとってはそれは男尊女卑的でもあり、時に首をかしげたくなるような内容でもありますが、いい意味では高潔で、義理堅い武士道を思い起こさせる部分が共存しており、一面的には読むことの出来ない深さがありました。
読んでみる価値がある一冊です。
こころ / 夏目 漱石 著
東京 : 角川書店 , 2004.5
335p , 15cm
改版
第116号:ハリケーンレオの襲来・・・「狙われた楽園」
今年は3年ぶりに規制のないG.W.ですね。私は、姉や甥姪とともに谷中に墓参したり、買い物をしたり、みんなで食事したりしました。晴天が続いて、「これぞ、ゴールデンウィーク」という気持ちになりました。
今日は、最近の日課のウォーキングをして、なかなか読み進められずにいた「狙われた楽園」を読み終えました。アメリカでは2020年刊行されたジョン・グリシャムのシリーズ第2作目「狙われた楽園」(原題「Camino Winds」)。今回は、村上春樹さんが訳者ではなく、星野真理さんです。
1作目ほどの感動はないものの、「ふむふむ」と言う感じでした。ある殺人から芋づる式に出てくる闇の世界。ほんとにあったら怖いなぁ、いやほんとにあるのかななどと想像をかき立てます。
ミステリーはあまり読み慣れない私なので、前回のように書店や稀覯本のことなどの描写を読みたかったのですが、今回はあまりありません。それよりも、このカミーノアイランドはハリケーンレオが襲撃して大変なことに・・・。
このカミーノアイランド(Camino island)はフロリダのジャクソンビル近郊の架空の島です。中心部にはサンタ・ローザというダウンタウンがあったり、前作のキーマンであった作家マーサー・マンのコテージは海辺にあったり、この島にあったヒルトンはこのハリケーンで大きな被害にあったり、本土から島に渡る橋も通行不能になったり、架空とはいえかなりロケーションの設定がちゃんとしており、想像を掻き立てます。
閑静な住宅が建ち並ぶ町で、主人公ブルース・ケーブルは独立系書店「ベイ・ブックス」を営んでいます。
オープンマリッジという形を取っていたブルースと妻のノエルは、今作ではオープンマリッジをやめて、あらためて海岸で結婚式をあげ、お互いの貞節を誓うというシーンも出てきます。
今作では、周りを固めるサイドストーリーがあらたに動き始め、ある意味中途半端なまま終わってしまうので、ここら辺が次作の展開を気にならせる要素にもなっています。
ブルースは前作に比べると、街がハリケーンで甚大な被害を受けたために書店の経営への熱が冷めているのが個人的には残念ですが、次作ではブルースの気持ちがどんな風に変わっていくのかも気になります。
狙われた楽園 / ジョン・グリシャム著 ; 星野 真理訳
東京 : 中央公論新社 , 2021
373p ; 20cm
著者綴り : John Grisham
第115号:サイゴン河のクルーズ船・・・「自転しながら公転する」
NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」が昨日最終回を迎えましたが、今回取り上げる山本文緒さんの「自転しながら公転する」も言ってみれば、ある家族の物語でもあります。ぐいぐい物語に引っ張られて、あっという間に読んでしまいました。
プロローグは、ベトナムで結婚式を挙げる花嫁の言葉で綴られ、エピローグでは結婚式の後のパーティーがサイゴン河のクルーズ船の上で行われるようすが出てきます。
プロローグとエピローグは短いものです。本編では、この物語の主人公の都♀(みやこ)が東京での仕事を辞め、茨城県の実家に帰ってきて、牛久大仏近くのアウトレットモール内の洋服店で販売員をしているところから始まります。
ここで、おそらくこの場所のモデルは阿見のアウトレットだとわかります。私は、個人的に阿見のアウトレットがオープンした頃、比較的頻繁に行っており土地勘があるのでこの地方感あふれる人間模様は、よりリアリティが感じられました。
そのショッピングセンター内の回転寿司屋で働く貫一♂との出会いや二人の付き合いの様子などが描かれます。
金色夜叉と同じくお宮と貫一。都は純粋に貫一といることは楽しいし、彼のよさもわかっているのに、中卒であったり、元ヤンキーだったり、時々だらしのないところを目にして、膨れてくる不信感との間で気持ちが揺れ動きます。
家族内で共有された固定的な狭い価値観により生きづらくなることや一度バイアスがかかってしまったものを取り払うことが難しいことなど考えさせられることが多い話でした。
著者の山本文緒さんは2021年10月に亡くなられました。本当はこの先ももっとこのような推進力のある小説を読みたかったです。
自転しながら公転する / 山本文緒著
東京 : 新潮社 , 2020.9
p478 , 20cm
第114号:ウィグタウン(Wigtown)はBook Town・・・「ブックセラーズ・ダイアリー」
ショーン・バイセル著の 「ブックセラーズ・ダイアリー:スコットランド最大の古書店の一年」を読みました。
私と同じ世代で、1970年生まれの著者が、30歳の時の2000年に生まれ故郷であるスコットランド南部のウィグタウン(Wigtown)で本屋を偶然買い取り、そこから古書店の経営者としての生活が始まります。
そのウィグタウンは、古書店が多い街で、毎年ブックフェスティバルが行われているそうです。著者の本屋は「The Book Shop」というまさに!という名前で、タイトルのとおりスコットランド最大の古書店だそうです。約10万冊の本があるそうです。
日々の出来事やその日は何冊本を扱ったかなどが日記形式で描かれています。風変わりなお客さんや従業員などの読んでいて、光景が目に浮かぶようで楽しいです。
私には古書店はやりたいという夢があるので、たくさんの本があって、希覯本も扱っているというビジネススタイルは憧れです。ニューヨークのストランドブックストア(Strand Bookstore)もそうですが、こんな本屋が街にあったら・・と思います。
この本の話に戻りますが、ある日の日記に、1679年出版された『デカメロン』の2冊をイタリア人女性が買っていった日のことが書かれています。
それをきっかけに、その本『デカメロン』を買い取ったときのエピソードに触れられており、この本の持ち主は一人住まいだった女性の遺品の中にあったとあります。
かなり荒れた状態の部屋の中でこの本は見つかります。彼女の両親がイタリアから移民としてやってきて、この家でカフェを開き、一時は繁盛店として切り盛りしていたようで、その後一人娘である彼女は店を閉じ、その家で一人暮らしたようです。
夢の跡の住処で、彼女の両親がイタリアから持ってきたわずかな荷物の一部であったに違いないと著者は思ったことが書かれています。
古書店には、売るだけでなく、買い取るという業務もセットとしてあり、本だけでなく思いを、本の作者だけでなく持ち主の思いも引き継ぐ側面をあります。
文章はかなりシニカルな書き方がされているのですが、それがまた冷静で面白いです。
本の街で、古書店か~。私にとっては、とても気持ちがリラックスできる本でした。
/ ショーン・バイセル著 :矢倉 尚子訳
東京 : 白水社 , 2021
335p , 20cm
書名原書綴り :The Diary of a Bookseller
著者原書綴り : Shaum Bythell
第113号:オワーズ川のほとりの町で・・・「リボルバー」
2021年5月に発売された原田マハさんの「リボルバー」を読みました。
この表紙の「ひまわり」とリボルバーと聞いただけで、勘のいい人はゴッホの死に関係する話かなと気づくかもしれません。
そこまでは、いままでもいろんな本でも書かれていますが、耳切事件ばかりが頭に浮かぶゴーギャンとの関係について、深く掘り下げているところが本書の興味深いところでもあります。
とはいえ、ゴッホの死については、いろいろな節があり、今も闇の中です。
2007年10月にイル・ド・フランスのツアーの添乗で行ったときには、ラヴー亭のオーナーはすでに何人か変わっており、2階のゴッホの部屋は観光も見据えた形ですでに整備されていたころだったと記憶しています。
ゴッホの終焉の地として知られるオーヴェル=シュル=オワーズはパリから列車で乗り換えなど入れて、1時間半ほどのところにあります。
このオーヴェル=シュル=オワーズの町を歩き、荒涼とした「カラスの飛ぶ麦畑」とゴッホとテオの並んだ二人の墓を見たときには、私自身、不思議なほど感極まるものがありました。
この小説の中でも、主人公冴がこの地に初めて訪れたときに、私と同じような気持ちを味わっていたという描写があり、私もあの日に連れ戻されたような気がします。
自分も学生時分に初めてここを訪れたとき、わけもなく胸がいっぱいになり、まったく予期せず涙が込み上げたことをよく覚えている。
本書「リボルバー」より引用
ゴッホの名作と呼ばれる絵の多くは、亡くなる前の2か月足らずのオーヴェル=シュル=オワーズで描かれています。
この町には、名前の通り、静かな流れのオワーズ川が流れています。また、彫刻家ザッキンによるファン・ゴッホ像があり、その姿もこの町の印象とともに目に焼き付いています。
私が行った頃は、それほど知られていない町でしたが、近年はとても人気があり、この小説とともに、コロナ禍でなければ、さらに日本人の観光客も増えていたのではないかと思います。この本を読まれたら、一度おでかけになることをおすすめします。
旅行屋としては、仕事の面でも注目していくことになりそうですが、とてもイマジネーションが膨らむ町です。
リボルバー / 原田 マハ著
東京 : 幻冬舎 , 2021年5月
336p ; 20cm
第112号:バレンタインデーの前日に愛の形を考える・・・『コロナの時代の愛』
以前のブログを見ていたら、2008年に読んだガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』のことを書いていました。ちょうど、同名の映画が日本でも公開されて少し経ってからのことなので、映画を見て、興奮冷めやらずという感じで書いている節があります。そのブログの記事を、少し加筆訂正して、この本の紹介をしようと思います。
<2008年のブログから>
作者のガルシア=マルケスは、1927年コロンビア生まれ、正式名はガブリエル・ガルシア=マルケスです。
初めて、この本の題名を私が知ったのは、以前ブログにも少し書きましたが、ジョン・キューザック主演の『Serendipity(セレンディピティ)』というニューヨークを舞台にした映画(2001年にアメリカで公開)でした。劇中で二人の男女が出会うアイテムとして、5ドル紙幣とこの『コレラの時代の愛』という本がキーワードになっていたんです。それでずっと気になっていたところ、先日映画化されたので、今回読んでみようということになりました。
あらすじについては少しだけ・・・、”51年9ヵ月と4日、男は女を待ち続けていた・・・・・・。”という本の帯が物語るように、主人公フロレンティーノ・アリーサ♂がフェルミーナ・ダーサ♀と婚約までしたのに、彼女から破棄された時から延々続く長い歳月。ひたすら思い続けるフロレンティーナ・アリーサだけに視点を置いているのではなく、フェルミーナ・ダーサ♀と結婚した医師フベナル・ウルビーノ博士♂との夫婦の機微についても書かれていて、その視点が区切れることなく、あちこちに展開されていって、大作で読み応えがあるんですが、飽きずにひきこまれていきました。
1860年代~1930年代にかけてのコロンビアの地方都市が舞台。51年9ヵ月と4日、フロレンティーナ・アリーサ♂は待ち続けました。何をかというと、フェルミーナ・ダーサ♀の夫が亡くなって、一人になる日を。近くに接近しすぎることなく彼女を一方的に愛し続け、ついにその日が来て、行動にでるんです。
ですが、彼がその51年9か月と4日、誰も愛さなかったかというと、彼女への愛を自分自身に誓っているので深入りしないように気をつけながら、temporaryで、または継続しつつも割り切りながら数多くの女を愛しながら、生きて行くんです。そんな様子や、やっとフェルミーナ・ダーサ♀と心を通じ合わせた時に、若い彼女ではもちろんなくて、すでに72歳の彼女は”たしかに老いの酸化したような匂いがした。”と彼は感じていて、こんなところにもとてもリアリティを感じてしまうのです。
約500ページに及ぶ大作でしたが、ここまで読者を惹きつける著者の手腕に、コロンビアの大作家といわれる所以を感じました。
一見すると、こんな話はあり得ないと思うんですが、その表現のリアリティが確かにこんなことが存在するかもしれないと思わせるんです。そして、注目すべきはフロレンティーノ・アリーサ♂がさえない青年から社会的地位もある紳士へ変容し、フェルミーナ・ダーサ♀は少し高慢な頑なさを少女時代から守り続けながら、気品ある淑女へ変容していくんです。そして、同じ立ち位置になって、ベストな状態で正式に再会するんです。ここら辺の描き方もさすがだと思ってしまうんですよね。
久しぶりに読書の良さっていうものを改めて感じさせてくれる小説でした。自分の人生はひとつしかなくても、小説の中の他人の人生を見ることで、こんな人生もあるんだなと思ったり、今回の小説では老年になると、”酸化した匂い”がするんだーと衝撃を受けてしまいました。ガーン... 以上
このブログのあとに、DVDも見たんですが、個人的には映像として見ると、うーむ。
バレンタインデーの前日です。こんな愛の形もあるんだと考えます・・・
コレラの時代の愛 / G・ガルシア・マルケス著 ; 木村 榮一訳
東京 : 新潮社, 2006
528p ; 20㎝
原文書名: El amor en los tiempos del colera
2005年からやっているもう一つのブログを引っ越ししたら、検索に出なくなってしまいましたが、これはこれでclosedな感じで、なかなかたどり着かないって言う感じでいいかもしれません。