umemedaka-style’s diary

本と旅をつなぐブログ

第87号:上野の山・・・「夢見る帝国図書館」

中島京子さんの「夢見る帝国図書館」を読みました。友人がこの本を贈ってくれました。本を贈られたり、贈ったりって、すごく嬉しいし、ワクワクします。

 

さて、この「夢見る帝国図書館」は、かつて帝国図書館と呼ばれ、戦後GHQ主導で憲法制定してからは国立国会図書館の分館となり、現在は国立国会図書館国際子ども図書館となっている図書館のお話です。場所は上野の黒田記念館の隣に位置しています。

 

主人公「わたし」はフリーライターをしていて、上野公園の噴水の見えるベンチで喜和子さんという女性と出会いました。それから三月にいっぺん程度、2人は会うようになりました。喜和子さんは、図書館が主人公の話を書いているといいます。

 

物語は、「わたし」の目線と、図書館が主人公の「夢見る帝国図書館」という話と、交互に進んでいます。

 

「わたし」が語る方の話では、喜和子さんとの出会いやエピソード、喜和子さんが亡くなったあとには、彼女の生前語った言葉をヒントに生い立ちをたどっていきます。「わたし」は、孫の紗都や数少ない喜和子さんと交友のあった人々と喜和子さんをきっかけに出会うことになります。最後には、読者も、「喜和子さん、良かったね」と言いたくなる話でした。

 

さて、この小説には興味深い話がたくさん出てきます。私は図書館司書としても働いていることもあり(このコロナ禍で)、司書課程では近代図書館の歴史を勉強したので、この物語を読んで、そういうことだったのかと思うことがたくさん出てきます。GHQCIE図書館の担当だったキーニーが、本国のマッカーシー赤狩りの影響で更迭され、本国に帰ってしまう話などもあり、1950年~朝鮮戦争が始まる前の時期で、太平洋戦争は終わったものの、GHQにおいても難しい舵取りが行われた時期なのかもしれません。

 

上野周辺の歴史にも触れられていて、上野の山にはいまよりも広大な寛永寺墓所があったこと。戊辰戦争の戦いの一つである上野戦争彰義隊がこの上野の山で激しい戦いを繰り広げたこと。また、近代図書館の始まりとされる湯島聖堂内でできた書籍館(しょじゃくかん)やいまは使われていない京成電鉄博物館動物園駅などもでてきます。

 

そして戦後、喜和子さんが幼少期に迷子になって親と離れ離れになって住んでいたと言っていた上野山の、いまの西洋美術館や東京文化会館あたりにあったという葵部落というバラックの集落についても出てきます。

 

私はいつも菩提寺がある谷中を抜けて、上野桜木を通り、東京藝大正門の前を通り過ぎて上野公園を通りぬけ、上野駅公園口へ行くルートを歩くのですが、こんな歴史があったなんて・・・。これからは道を歩く速度をゆっくりして、もっとじっくり感じでみたくなりました。

 

夢見る帝国図書館

 

夢見る帝国博物館 / 中島 京子著

東京 : 文藝春秋 , 2019

404p  ; 20cm

 

注釈)

書籍館(しょじゃくかん)

明治時代に湯島聖堂内にあった図書館で、国立国会図書館支部上野図書館(旧帝国図書館)の前身と言われ、近代図書館の始まりと言われています。

 

デューイの十進分類

森清が、このデューイ十進分類法をもとに、日本十進分類日本十進分類法(NDC)を作成し、日本の図書館で広く使われている図書分類法です。

 

第86号:書店兼貸本屋兼出版社、のちに図書館別館・・・「アルジェリア、シェラ通りの小さな書店」

カウテル・アディミ著「アルジェリア、シェラ通りの小さな書店」を読みました。

実在の伝説的出版人であったエドモン・シャルロが、アルジェで初めに開いたハマニ通り2番地2(旧シェラ通り)の書店<真の富>に端を発したストーリーです。

 

話は、2つの時代を交互に展開していきます。

1つ目は、エドモン・シャルロが1935年に、21歳で本屋を始めようとしたきっかけから1961年までの話です。

2つ目は、2017年にこの旧書店(その時点では国立図書館別館)の中の本を取り去り、全てのものを廃棄するために、アルジェへやってきたパリ在住の21歳の読書に興味のないリヤドの話。大学の実習先(スタージュ)が見つからずに困っていたリヤドは父親の知り合いからこの旧書店の片付けを頼まれます。のちに図書館別館になってからも貸し出し係をしていたアブダラーが書店の前で毎日立ち尽くしており、2人は出会います。

 

 

この書店<真の富>の名前は、小説家ジャン・ジオノの本の表題が使われおり、ショーウィンドーに、「読書をする一人の人間には二人分の価値がある」(本書引用)という銘文が刻まれていると書かれています。

 

エドモン・シャルロは、アルジェの小さな書店、貸本屋にとどまらず、カミュの他、たくさんの作家と交流があり、次々と出版もしていきます。パリに進出し、友人とシャルロ出版を作り、書店<真の富>は弟夫婦に譲ります。時代は、第2次世界大戦、大戦がやっと終わったかと思うとアルジェリア独立戦争が起こり、シャルロはパリから撤退しアルジェに戻り、新しい書店を開きますがテロに攻撃されたり、激動の時代を通り抜けます。

 

2017年、書店<真の富>は弟の未亡人が手放し、図書館別館になりましたが、その歴史に幕が降りることになります。

 

アルジェリアについて、ほとんど知らない私にとっては、第2次大戦での宗主国フランスの勝利のために犠牲を払ったアルジェリア、民族解放戦線FLN、パリでのアラブ人狩り独立戦争チュニジア、モロッコよりも遅く独立することになったことについても、ほとんど知らずにいたことを実感しました。

 

旧シェラ通り、現ハマニ通り2番地2。ストリートビューでは見られないようで、いつかアルジェにも行ってみたいと思いました。

 

アルジェリア、シャラ通りの小さな書店

アルジェリア、シェラ通りの小さな書店 / カウテル・アディミ著 ; 平田紀之訳

東京 : 作品社 , 2019

237p ; 20cm

著書原綴 : Nos richesses

著者原綴 : Kaouther Adimi

 

 

 

 

第85号:続・やはりナポリ・・・「 ナポリの物語4『失われた女の子』」

おはようございます。

ついに、エレナ・フェッランテの「ナポリの物語」が今回読了した第4巻で完結となりました。第1巻の冒頭で、トリノに住むエレナとリラの息子リーノが電話でリラの不在について話す印象的なシーンが出てきます。そのシーンは謎のまま、話は過去に遡ったのですが、この巻の最後にそのシーンが繋がっていきます。

 

読み終えて、ため息のような思わず「おおー」という気持ちと、ついに終わったかという一抹の寂しさのようなものがこみ上げてきます。

 

戦後と言われる1950年代にナポリの貧しいある地区で生まれたリナ(リラ)とエレナという2人の少女の話です。この小説自体は、のちに作家となったエレナの目線で書かれています。4巻に渡る長編です。(各巻についてもこのブログでは書いてきました。)

 

小説の中には、リナとエレナの住んでいたというナポリ団地の具体的な地名は出てこないものの、Googleストリートビューをみながら、あのあたりかなと思ったりしながら読みました。

 

物語の中では、悪党として地区の人に恐れられていたソラーラ兄弟がマルティリ広場(Martiri=殉教者たちの意)に店を出したり、ニーノ(エレナが幼少時代から好きだった)が部屋を借りて、エレナと子どもたちと住むことになる海が見える高台のタッソ通り(Via Tasso)の地名なども出てきます。ストリートビューを見ると、その場所の雰囲気がイメージしやすくなります。

 

例にあげたマルティリ広場も、タッソ通りはどちらかというとナポリの中では山手なイメージに近い雰囲気がありました。後半、ナポリの歴史を調べていたリナから、彼女たちが子ども時代に遊んでいた場所からも近いというサン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会、フォルチェッラ地区など、観光客が足を踏み入れるのには慎重になるようなエリアの地名も出てきます。リナとエレナ、ニーノたちが子ども時代に住んでいた場所について想像をかきたてられます。

 

同じ地区に生まれ、少女時代のリナとエレナは性格的にも正反対の2人です。高等教育まで突き進んでいったエレナ。リナは地区から出ずに小学校で学業を辞めてしまったけれど、第1巻の原題「L'amica Geniale」(天才の友人)はまさにリナのことです。幼い彼女の「青い妖精」という文章の類まれな才能に女性教師が気づき、早くから身近でそれを感じていたのはエレナでした。

 

第2巻、第3巻と彼女たちはそれぞれに成長し、青春時代、結婚や出産、離婚など、それぞれのステージ進みます。しかし、お互いを絶えず意識しながらも距離を取ったり、近づいたり、家族を増やし、歳を重ねていきます。

 

第3巻の最後では、エレナが同じ地区出身の昔から憧れていたニーノと再会し、夫ピエトロと娘2人も置いて数日逃避行しましたが、この第4巻では、その後のニーノとの蜜月、夫ピエトロとの離婚に向けての話し、家族と過ごしたフィレンツェからニーノが住むことを望んだナポリへ移ることを決めます。リナ(リラ)はナポリから出ることなくずっと暮らしており、ニーノは、第2巻でリナと深い仲となって、すでに別れた過去があり、さらに絡み合っていきます。

 

第4巻の時代は、1980年代から2005年頃となっていて、電話がない子ども時代から電話が引かれ、それでも手紙のやりとりも頻繁に行われます。さらに、後半には主人公たちがメールを使う姿も出てきます。

 

第1巻~4巻を通じて、イタリアの戦後史の中で印象に残る赤い旅団の事件やボローニャ駅爆破事件などの記述、1980年にナポリで起こった地震(イルピニア地震)もエピソードとして出てきます。

 

おそらく私は、エレナの娘たちと同世代ではないかと思いますが、自分自身が歳を重ねるように、時代が移りゆくさまを史実とともに読むことができます。日本においても、私の生まれた70年代の70年安保から80年代のバブル期に移行していくように、学生運動や世論、政治も変わっていく時代でした。そういったイタリアの歴史描写も読者にさらに関心を引き寄せさせ、物語の奥行きを深くしているのではないかと思います。

 

ネタバレができないため、あまり詳しく書くことができませんが、第4巻はもう目まぐるしい展開です。この第4巻では、メインとなっていた複数の登場人物の消失という驚きもあります。リナとエレナは、この4巻を通して、常に嫉妬したり、羨望したりする気持ちがお互いに巡っていて、ああー、女の友情ってめんどくさいとも思ってしまうのです。

 

でも、ふたりのことが気になって仕方なくて読んでしまいます。 

 

 失われた女の子 (ナポリの物語 4)

失われた女の子 / エレナ・フェッランテ著 ; 飯田 亮介訳

東京 : 早川書房 ,  2019

600p ,  19㎝ - (ナポリの物語)

著書原綴: Storia della bambina perduta 

著者原綴: Elena Ferrante

 

ナポリ物語シリーズ

4.失われた女の子      2019/12発行

3.逃れる者と留まる者    2019/03発行

https://umemedaka-style.hatenadiary.jp/entry/2019/06/29/191126

2.新しい名字        2018/05発行

https://umemedaka-style.hatenadiary.jp/entry/2018/12/07/093603

1.リラとわたし     2017/07発行

https://umemedaka-style.hatenadiary.jp/entry/2017/10/20/163911

 

 

 

第84号:サルデーニャの蜂蜜は、未知の味・・・「サルデーニャの蜜蜂」

今週はお盆ウィーク。いつもの夏とだいぶ違いますね。

遅ればせながら、内田洋子さんの「サルデーニャの蜜蜂」を読みました。

 

この本は、タイトルとなっている「サルデーニャの蜜蜂」含む、15編から成ります。ノンフィクションだそうです。いつもながら、内田さんの文章を読むとその情景がありありと目に浮かんできます。もちろん、全てが場所が特定されているわけではないですし、行ったことがない場所がほとんどで、その場所も登場人物も知るよしもない私なのですが・・・。

 

例えば、「どんなに寒くても必ず軍手のようなごつい手袋を外してから、荒れてガサガサの両手で私の手を包み込むようにして挨拶した」(本書「寡婦」から引用)のブルーナという女性のシーンは、まるで私も内田さんの横で、白い息を吐きながら握ってくる手の感覚さえ感じる気がします。

 

さて、このタイトルになっている短編「サルデーニャの蜜蜂」では、カリアリの港から人気のない道をひたすら車で走り、目印はユーカリの大木や赤い岩と言われて、訪ねていく養蜂家は古代ローマ時代から続いているといいます。古代ローマ皇帝もお気に入りだった蜂蜜で、一匙で万病を治すと珍重されたそうです。苦い、そして甘みだけ残して苦味が消えるそうで、どんな味なのか?タイムの密生する山裾とは?と、より強く想像し、最後にはやっぱり行ってみたくなります。だいぶ前に、サルデーニャ行くはずの計画が頓挫したことがあり、今更悔やんでみたり・・・。

 

以前、内田さんが船上生活をしていたという話をラジオ番組に出演されたときに知り、どうして?と思ったのですが、そのきっかけのような話もでてきます。ちょっとしたさりげない言葉に、船上生活の内田さんを想像してみたり。

 

それぞれの章には、印象に残る登場人物が出てきます。どの人物も興味深く、ときおり切なくなったりします。

 

余談ですが、内田さんがインスタに載せていてオリヴェッティの「Lattera32」というタイプライターが本書で出てきて、これだったのかと思ったり。本とSNSを活用する今ならではの読み方もできています。

 

内田さんは高名で、多忙にも関わらず、インスタの一般のフォロワーにもコメントしてくださったりします。以前よりも、より内田さんを近く感じるようになりました。そのせいもあって、言葉が素直にすっと入ってきて、情景がありあり浮かんでくる気がするんです。

 

いままであれば、本は作家が書いたという完了形もしくは過去形で、読者とある意味切り離されていたものだったのですが、SNSで内田さんという作家が離れたイタリアで(日本にいてもどこにいても)、いまも生きていて、活動しているって身近に感じながら読むと、血が通うというか、なにか心にあたたかいものを感じます。

 

これって、とても素敵なことですね。

 

サルデーニャの蜜蜂

サルデーニャの蜜蜂 / 内田 洋子著

東京 : 小学館 , 2020

253p ; 20cm

 

 

 

第83号:香櫨園の浜辺・・・「猫を棄てる」

村上春樹さんの「猫を棄てる (父親について語るとき)」を読みました。冒頭、このタイトルのエピソードが書かれています。

 

村上氏は父親と2人、当時住んでいた夙川から2キロほどの香櫨園の浜辺の防風林の雌猫を置いてくるシーンが出てきます。(その後について詳しくは本書をお読みください。)

 

その当時は、香櫨園の浜辺は埋め立たられておらず、海はきれいで、村上氏は毎日のように友だちと泳ぎに行ったそうです。その香櫨園の浜辺での冒頭エピソード。とてもインスピレーションを刺激する部分です。

 

その後、本書では父親の生い立ちがあり、ディテールについて、さらに村上氏が後年、自身で調べた様子があります。

 

非常にプライベート内容ですが、この本を読むことで、読者は自分自身の両親について、思いを馳せざる得ない気持ちになります。

 

人には、おそらく は誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人には伝えることのできない重い体験があり、それを十全には語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。                                 

   「猫を棄てる 父親について語るとき」村上春樹著から引用

 

香櫨園に戻りますが、私は関東に住んでおり、谷崎潤一郎氏や宮本輝氏の作品で名前を目にする程度で、どんなところか実際には知りません。

 

グーグルMAPを見ると、たしかに香櫨園の浜辺の前方には、埋め立てられて人工島のようなものがあり、そこを高速道路が横切っていて、景色は浜辺と言うよりも、知らない人がみれば運河なのかな?とも思うし、なんとなく東京のお台場の人工浜を想起させるものがあります。

 

村上氏に関わるとても私的な話であるのに、読者である私も、読了後に私自身の父について考えたり、私と父にとってのエピソードに関わる場所はどこだろうと古い記憶をたぐり寄せながら、考えざる得ない気持ちになります。

 

猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)

猫を棄てる : 父親について語るとき / 村上春樹

東京 : 文藝春秋 , 2020

101p , 18cm

 

 

第82号:第一牧志公設市場向かいの古本屋さん・・・「市場のことば、本の声」

こんにちは。

 

7月だと言うのに、この寒さってないですね。長袖のブラウスにカーディガンを着込んでも、まだ寒いほどです。気がつけば1カ月以上、このブログもお休みしておりまして、失礼いたしました。

 

今日、ご紹介する本は、那覇第一牧志公設市場の向かいにある「市場の古書屋ウララ」の店主であり、執筆活動もされている宇田智子さんの「市場のことば、本の声」です。

 

宇田さんは東京で新刊の書店でお勤めされていましたが、単身沖縄で古書店を開業されました。第一牧志公設市場の向かいにあり、もともと3軒漬物屋さんが並んでいたところの1軒が古本屋さんでそこが閉店されるので買い取って、ウララを始めたそうです。

 

そのエリアのお店は、水上店舗とも呼ばれていて、ガープ川という川が暗渠になって、その川の上にコンクリート製の水上店舗が完成して、50年建つそうです。なんだかブラタモリに出てきそうですね。

 

私も古書店を将来は始めたいので、この本はとても興味深く読みました。勝手ながら、宇田さんと共通した世界観を文章から感じたりしました。

 

宮古島のアパートの一室で子どもたち向けの図書館というか、私設文庫をやっている方の話では、お金を出さずに本を読ませてあげるほうがいいのかと考えたり、でも図書館の人から古書店があると教えてもらったというお客さんが来店し、「手元に置きたい本だけあとで買うの」(本書引用)と言われたり。

 

本の出張販売をしたときに、スーツケースに入れて重い本を持って会場に行き、軽くなったスーツケースを引いてを帰ってくるときに、「こんなふうに本を売りながら旅できたらと夢みつつ、来た道を帰る」(本書引用)なんて文章を読むと、同じこと考えてる~と思ったりしました。

 

第一牧志公設市場は、昨年6月から改築のための工事に入り、今は別の場所で仮設店舗で営業しているようです。2022年4月に新しい第一牧志公設市場が完成するようです。あの唯一無二な感じの第一牧志公設市場の雰囲気も良かったのですが・・・

 

10年くらいは、7月の後半には毎年沖縄に行くという3,4年もあったのですが、ここ最近は沖縄に行っていない私です。第一牧志公設市場は改築、沖縄三越は閉店したと聞き、ちょっぴり寂しいような気持ちにもなります。

 

グーグルのストリートビューで、「市場の古本屋ウララ」がみられました。本で読んでいたのと、実際グーグルで見てみると、私が想像していたのと少し違いましたが、屋根付きのアーケードで全天候型で、今日のような雨の日にはつい行きたくなってしまいそうです。

 

https://maps.app.goo.gl/mYhc4NYLvDiqFgqs5

 

市場のことば、本の声

市場のことば、本の声 / 宇田 智子著

東京 : 晶文社 , 2018

235p ; 20cm

第81号:エンナは季節のはじまりの地?・・・「ギリシャ神話」

ギリシャ神話は好きで、今までもいろいろな本を拾い読みしていました。

本によってディテールには違いがあり、話自体もやや奇想天外ではありますが、その世界観は日本人が「古事記」「日本書紀」を断片的にも知っているように、馴染んでいるようです。

 

今回読んだ「ギリシャ神話」は、児童文学の作家であり、翻訳家として知られる石井桃子さんの編・訳です。児童文学書なので、とても分かりやすく書かれています。

 

この本にも私が大好きなシチリアのエンナを舞台とする大地の母デメーテルの話が出てきます。以前、読んだものとディテールは違いますが、お話を読みながら高速道路を走りながら車窓からみたエンナの風景を懐かしく思い出しました。

 

なかなかエンナを目的に出掛けることはありませんが、アグリジェントからカターニャタオルミーナに移動する際に、A19という高速道路を通りますが、その車窓からエンナの草原が見られます。

 

高速から見えるエンナの景色を入れてみました。

www.google.com

 

それでは、かいつまんであらすじを少し・・・

 

メーテルは土から生まれたものの全ての母で、穀物を芽生えさせたり、果物を実らせる秘密を知っていました。

 

神々の父といわれるゼウスとの間にペルセポネという美しい一人娘がいました。ある日、ペルセポネはエンナの牧場でニンフたちと遊んでいました。とても美しく気になる、水仙のように見える、1つの花を見つけ、それを引っ張ると大地が割れ、大きな口をあけ、冥界の王ハデスの4頭立ての馬車が勢いよく飛び出し、連れ去られてしまいました。

 

母デメーテルはペルセポネを探し続けましたが見つからず、深く悲しみ、暗いほら穴へ姿を隠していまします。姿を消したデメーテルは人間の世界に降りていき、人を助けたり、旅をしていました。

 

大地の母デメーテルが畑の面倒を見なくなってから、作物は目を出すことも育つこともできなくなりました。

 

そこでゼウスはイリスという虹の女神に、デメーテルがいないと生き物は育たず、みんな死んでしまうので早く帰ってくるようにを伝えに行かせましたが、だめでした。他の神々を行かせても、デメーテルをなぐさめることは出来ませんでした。

 

そして、とうとうゼウスは、ヘルメスを冥界の王ハデスのもとに行かせ、母の手にペルセポネを返すかどうか確かめにいかせました。その話を耳にしたペルセポネの喜びようを見て、ハデスもヘルメスの申し出を聞き入れないわけには行きませんでした。

 

申し入れをしぶしぶ受けたハデスは、馬車に乗ろうとしたペルセポネにざくろの実を食べさせました。ペルセポネはそれを4粒だけ食べました。冥界のものを食べた者は冥界から出られないということを知らずに・・・。


ペルセポネはデメーテルのもとへ帰りました。しかし、喜んだのもつかの間、デメーテルはペルセポネが冥界の食べ物を食べたことを知ります。 

 

メーテルはゼウスに助けをもとめ、神々の父であるゼウスはデメーテルの頼みをきき、ペルセポネが冥界で過ごすのは食べたざくろの実の数、つまり4カ月でいいということになりました。

 

メーテルがペルセポネといられる8カ月は、美しいエンナの谷へ帰って、畑や果樹園で働き、農夫やパンを焼く女の手助けをしたり、いろいろな仕事の世話をしました。


ペルセポネが冥界にいる4カ月間、デメーテルはまたほら穴の暗い陰に隠れてしまいました。そのあいだ、生き物はまた眠ってしまいましたが、農夫たちは恐れませんでした。なぜなら大地の神デメーテルが戻ってくることを知っていたからです。

 

というお話です。

この本では、季節のはじまりの話とは出てきませんが、一般的には、このデメーテルの隠れてしまう4カ月が冬であり、この話は季節のはじまりの話といわれています。

 

このエンナは、シチリアなのに冬は雪が降り、厳しい冬が来るところとして知られています。まさにこのお話にぴったりです。

 

ギリシャ神話なのに、シチリアって思われるかもしれませんが、ローマ人よりも前に現在のイタリアあたりはギリシャ人が住んでいたわけで、シチリアには古代ギリシャの名残がいまでも見られます。

 

シチリアにも行きたくなります。

 

ギリシア神話

ギリシャ神話 ; 石井 桃子 編・訳

東京 : のら書房 , 2000

21cm , 341P