第26号:「クリスマスのおはなし」のベツレヘム・・・2017年前のクリスマスを想像して
明日はクリスマス・イブですね。今週、小学校の読み聞かせに行き、その時に読んだ本です。絵と文はジェーン・レイという人が書いている「クリスマスのおはなし」。
日本人にとってはクリスマスは、イベントというイメージが強いのではないでしょうか?バブルの頃には、カップルで過ごす重要なイベントというイメージがいまよりも強かったですね。
いま、米大統領のエルサレムについての発言など、いつもイスラエルは大国の思惑と、長年そこに住むそれぞれの民族の思いなど、解決ということはなく続いているように思います。すごく難しい問題だと思います。
この本を読むと、2017年前にも人々の生活は、脈々とある中に、ベツレヘムで生まれた幼子、キリストの誕生をあらためて想像することができる気がします。
西暦は2017年前からスタートしましたが、それよりも前から民たちの生活は今と同じように行われていたのです。
この本では、ナザレに住んでいたマリアの元に天使ガブリエルが訪れ、神の子を身ごもったことが告げられるシーンからスタートします。
マリアと夫の大工ヨゼフは、故郷に帰れという命令を(国から)受けて、他の民たちと同様にヨゼフの生まれ故郷のベツレヘムへ帰ります。しかし、宿屋はいっぱいで、馬小屋に案内され、マリアはそこで幼子を出産し、かいばおけの中に幼子を寝かせたのです。そして、東方から3人の博士が星を道しるべにベツレヘムへやってきます。
よく知られたお話ですが、あらためて、子供向けに要約された絵本を読むと、よりこの行間のなかに想像が膨らむのでした。そして、これは2000年も前のお話。
たまには、2000年前のこの日のことに思いを馳せてみてもいいかもしれません。
では、よいクリスマスをお過ごしください。
Merry Christmas!
クリスマスのおはなし / ジェーン・レイ絵と文 ; 奥泉 光訳
東京 ; 徳間書店 , 1994 ; 30cm
第25号:赤い町・・・「ボローニャ紀行」
もう10年以上前に、友人がボローニャに留学していて、2週間弱遊びに行ったことがある。友人はもう間もなく帰国というところで、学校もお休みができない状況だったので、私はひとりボローニャの町と、その近隣の町へ毎日出かけた。ラヴェンナやフィレンツェ、パルマなど。友人と学校のお休みの日に、ボローニャからチンクエテッレに遊びに行って、ラスペッツァとモンテロッソ・アル・マーレに泊まったのも懐かしい。
ボローニャから帰ってきて、5、6年近く経ってから、この井上ひさし著「ボローニャ紀行」が発売された。この本が文庫化し発売された2010年に、井上ひさしさんはお亡くなりになられていたが、ボローニャに行く前に読みたかった一冊である。
「赤い町」と呼ばれるボローニャは、赤レンガでできた建物が多く、全体的に町が赤い色調である。それに、イタリアには左寄り、右寄りの町というのがあるが(日本人的には単純にそう言ってしまうがそんなに単純じゃないのかもしれないが)、ボローニャはそういう意味での「赤い町」でもある。独身の働く女性が多く住んでいるということも現地で聞いて、納得できた気がする。
ボローニャの町の中心には、マッジョーレ広場とネプチューンの噴水があり、いつも人が集まっていてにぎやかな場所がある。その広場に面して市庁舎が立っていて、2000人近い人々のポートレート写真が壁にはめ込まれている。そのポートレートは、第2次世界大戦の時に、命を落としたレジスタンスの人々だと聞いた。あの前に立つと、誰もが忘れてはならないとあらためて強く感じるものがある。
この「ボローニャ紀行」には、サンタ・マリア・デッラ・ヴィータ聖堂の司祭だったマレッラ神父のことが書かれている。
1940年代、ドイツにボローニャが占領されていたある日のこと、市民のパルチザンがドイツ兵を1人撃ってしまった。ドイツ兵1人に対し無作為に選んだ市民10人を射殺することを決めており、その中にお腹を空かせて泣く赤ん坊を抱いた母親がいて、ドイツ兵に乳をあげたいととりすがったが赤ん坊は取り上げられ許されなかった。その時、マレッラ神父が身代わりになりますと言って進み出た。神父を撃つわけに行かず、処刑は中止された。
神父は中心部にある大きな食料品店の壁の前に坐り、黒い帽子を差し出して喜捨を乞いそのお金で孤児院や母子寮をたくさん建てた。その場所は神父の背中でこすられてすっかり凹んでしまったという。マレッラ神父の精神がボローニャの他人の不幸を見過ごしにしない「ボローニャ方式」に結びついていると書かれている。
この本には、世界一のフィルム修復、映画館のある「チネテカ」や、廃品を集めて再生するホームレスの人が仕事したりする「大きな広場の道」組合本部や、半農半学の障害者の教育農園「COPAPS」などが書かれている。
文庫化されたのが2010年だから、井上ひさしさんの取材はそのだいぶ前に行われたものであると思う。この発想というのは素晴らしいと思った。根底には、マレッラ神父の「ボローニャ方式」というものがあるのだろう。
イタリア旅行といえば、ベネチアのあとは、フィレンツェに移動という感じで、いつも高速道路でボロ―ニャの脇を通り過ぎていた時代がある。自分が企画するようになってボローニャ滞在のコースを作ったが、前回も書いた通り、売れなかった。
でも、この本を読んでボローニャ行きたいと思った人は多いのではないかと思う。私がボローニャ滞在のツアーを売っていたころは時期尚早だったのか、日帰りの旅がチェーザレ・ボルジアゆかりのイーモラやフォルリなどマニアック過ぎたからだろうか。
さらに進化しているであろう今のボローニャに出かけたい。
ボローニャ紀行 / 井上 ひさし著
東京 : 文藝春秋 , 2010
253p ; 16㎝
第24号:ベルニーニの道しるべ❝セーニョ❞・・・「天使と悪魔」
ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」は2009年に、トム・ハンクスを主役に映画化された。2006年には、同じくダン・ブラウン原作の映画「ダ・ヴィンチ・コード」がすでに大ヒットしていた。
「天使と悪魔」は小説としては、「ダ・ヴィンチ・コード」よりも先に書かれたものだった。私がこの小説を読んだのは、話題になっていた「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ後の2006年頃である。面白くて、あっという間に読んだと記憶している。
私のようなトラベルコンシェルジュの元に、いまも「天使と悪魔」をテーマにローマを旅したいという依頼はある。
主人公は、「ダ・ヴィンチ・コード」同様にハーバードの象徴学の教授ロバート・ラングドン。彼もとに送られてきたFAXに写る遺体の胸には、かつての科学者集団の”イルミナティ”の焼印が押されていた。その写真の人物は、スイスの科学研究所セルンの所長レオナルド・ヴェトラだった。娘のヴィットリアと共同開発した反物質(放射線を発生しながら、小さな質量で大きな熱量を発する破壊兵器として使うことのできる物質)がなくなっていた。
そんな折、ヴァチカンでは前教皇が逝去し、コンクラーヴェ(次期教皇を決めるための選挙のようなもの)が行われていた。
コンクラーヴェに当然来るべきプレフェリーティと呼ばれる有力候補者たちの4人が会場に現れない。
4人のプレフェリーティの枢機卿たちは1時間ごとに1人ずつ殺されるとあり、猶予は4時間。そして、反物質の爆発もそのすぐ後に起こるという予告があった。
ラングトンは謎解きを始める。イルミナティの4元素は、土、空気、火、水。殺人は一つ一つ行われる。このキーワードをなすのは、ヴァチカンにとって、屈指の芸術家だったベルニーニだとたどり着く。彼の道しるべ ”セーニョ(啓示の道)”がキーワードだった。
かつてイルミナティの会員だったベルニーニが、イルミナティの科学の精神に共鳴する科学者たちにだけわかるように高度な道しるべをローマ各所の自分の作品に込めたのだった・・・。
犯人は本書で読んでいただくとして、この”セーニョ”を辿るべく、ローマを旅するというのは、なかなか面白い。
先日もこのブログで、❝ 第20号:『心変わり』・・・ローマへの列車の中で ❞で、バロックの巨匠ベルニーニとボッロミーニについて書いたが、ベルニーニの作品は、ヴァチカンのサン・ピエトロ広場以外にもたくさんある。
もちろん、小説ではあるけれど、ベルニーニを単なるバロックの芸術家として見るだけでなく、裏にある象徴みたいなもの思い描きながら歩いてまわるというのも、面白いと思う。
ぜひ、ローマに行くときには読んでから出かけてほしい。
天使と悪魔 : ヴィジュアル愛蔵版 / ダン・ブラウン著 ; 越前 敏弥訳
東京 ; 角川書店 , 2006
703p ; 22cm
本はかなりボリュームがあるので、ちょっと無理という方にはこちらお薦め。
第23号:カンヌで再起をはかった男・・・「ビザンチウムの夜」
アーウィン・ショーの作品は、私の性に合っているようで、どれも好きだ。ニューヨーカー・スタイル(洗練された都会小説と言われる)を作り上げた作家の1人である。でも、日本ではあまり人気がないようで、以前、常盤新平さんが翻訳したことのある『サマードレスのおんなたち』の新訳が出た以外は、絶版になってしまった。
私は、ただ都会的で洗練されているからアーウィン・ショーが好きなのでなく、(彼の描く主人公はクールで確かにかっこいいが)友情に厚く、内省的な人が多い。そんなところにいつも惹かれるのである。
この『ビザンチウムの夜』は1970年、映画祭で盛り上がるカンヌが舞台になっている。主人公グレイグこと、ジェシーは脚本家として映画業界でかつて活躍していた。駄作といわれた作品の後、5年もの間、公の場には出ずに過ごしてきた。
カンヌ映画祭が行われるカンヌに彼は沈黙を破って現れ、カールトンホテルに長逗留した。「三つの地平線」という脚本を書いていた。その脚本を友人のマーフィーは駄作だと言った。偽名にしてあるその脚本を見た売れっ子のプロディーサーのクラインはそれを評価し、監督としても売れているトーマスと組んで映画化するという話に発展する。
そんなグレイグに、マッキノンという女がインタビューしたいと現れ、彼は次第に娘と同じ程の年齢のマッキノンの若さ、聡明さ、色気に魅了されていく。マッキノンがグレイグに近づいたのは、娘のマッキノンに興味を持たず、捨てていった母がグレイグのスクラップブックを持っていたことが理由にあった。
グレイグは21年連れ添った妻に離婚をしたいと言った。彼女はグレイグの友人と関係を持っていた。離婚理由はそれだけでなく、パリで自立した生活を送るコンスタンツという女性との出会いも理由にある。彼がカンヌにやってきたのも彼女が背中を押してくれからだった。
カンヌで再起をはかったグレイグはニューヨークに戻り、彼の脚本は映画化に向かって動き出す、しかし・・・。
1970年のカンヌ。その時代からカンヌ映画祭というのは、世界中の映画産業にかかわる人々にとって、大きなビジネスチャンスであったといえる。
1966年のクロード・ルルーシュ監督の、北フランスのドーヴィルの海が印象的で、フランシス・レイの音楽を聴くと誰もが思いだす「男と女」を見ていて、あのころのフランスは、電話は交換手に頼んでつないでもらう時代だったのだと思いながら見ていたが、この『ビザンチウムの夜』もまさにそんな時代のフランスのカンヌが舞台になっている。
ずいぶん前に、カンヌ映画祭の時期に、たまたま南仏のツアーの途中に、カンヌに立ち寄ったことがある。会場入口の階段にはレッドカーペットが敷かれていて、現地にきたなと感じた記憶がある。街でアメリカのQ監督を見かけたりした。是枝監督が柳楽優弥くんを起用して話題になって、キムタクもカンヌ入りしていると話題になった年だから、うーんいつだったかなと調べてみると、2004年だった。5月にカンヌ映画祭の話がでると、あのときにカンヌの雰囲気となかなか暮れない初夏の夜を思いだす。
ビザンチウムの夜 / アーウィン・ショー著 ; 小泉 喜美子訳
482p ; 16㎝
英文書名 : Evening in Byzantium
フランスのドーヴィルの海岸で二人の姿が印象的な映画「男と女」
監督クロード・ルル-シュとFrancis Lai の音楽♪「A Man And A Woman」
(♪ダバダバダ・ダバダバダ♪ のフレーズ)で数々の映画賞を取った作品。
1966年カンヌ映画祭のグランプリも。
60~70年をフランスを舞台のにしているので『ビザンチウムの夜』と合わせて見たい作品。
第22号:モンテレッジョ・・・いにしえの本の行商人たち「十二章のイタリア」
今年7月に出版された内田洋子さんの「十二章のイタリア」を読む。
ミラノに在住していた須賀敦子さんが亡くなられてだいぶ経つ。私はオンタイムで須賀さんを読んでいたわけではないけれど、須賀さんが書いていたイタリアの日常を映す文章は、なんとなく私の中で「イタリア通信」のような意味合いを持っていた。須賀さんの目を通したイタリアの情景は、いつも興味深く、次々と読みたくなった。
いま、実際に読むことができて、昔と今のイタリアとの比較を交え、今のイタリアを伝えてくれる私の中の「イタリア通信」を書いてくれているのは、須賀さん亡きあと、内田さんだと思う。そして、内田さんの「イタリア通信」も次々と読みたくなってしまう。
タイトル通り、12章からなるこの本の最終章に「本から本へ」という文章がある。それは、ベネチアに住んでいた内田さんが通った古書店のエピソードから始まっている。店主と四方山話をするために訪れるように見える客たち、内田さんが粗選びした本を「~これは持っておいた方がいい」「この本は、そのうち廉価版も入荷するな」「重さがあり過ぎるから~」(一部引用)と教えてくれて、家に持って帰りゆっくり決めていいと本を持たせてくれて、お代を受け取ろうとしない店主がでてくる。素敵なエピソードはさらに続き、その三代目の古書店主の故郷はトスカーナ州の、住人は30人いるかどうかの小さな町だと聞く。
その町の名は、モンテレッジョ。トスカーナの大理石で有名なカラーラの海とリグ―リア州のラスペッツァの軍港が眼下に控える場所にあるという。いまでも、本の祭りが開かれるそうだ。
内田さんは、ベネチアの古書店主に紹介されて、常駐はしていないという村の理事の人とその山間のモンテレッジョに出かけていき案内してもらう・・・詳しくは、本でお読みくださいね。
どうも、古書店、本というキーワードが出てくると私は気になって仕方ない。そして、モンテレッジョという町が気になってしょうがない。発音から想像するに、Montereggioかなと検索してみると、それらしい町がヒットした。
「Montereggio paese dei librai」というタイトル。本の国モンテレッジョという感じだろうか。
ウェブサイトには、中世の装束を着て本を片手に持つ行商らしい男性の絵と、すでに終わった今年8月19-27日の本の祭りの告知等が出ている。
町の画像が上記のリンクには出ているがなんともひなびた感じの山間の町である。ここから、時には命がけで本を背負って運んだのかと想像すると感慨深いものがある。どんな道を歩いて運んだのだろう。行ってみたい、モンテレッジョ。
十二章のイタリア / 内田 洋子著
東京 : 東京創元社 , 2017
237p ; 20㎝
第21号:ニースにある"L’hôtel-Pension Mermonts"の建物は、今も健在。「夜明けの約束」
今年6月に、日本語訳の初版として発刊されたロマン・ガリ著「夜明けの約束」は、ロマン・ガリの自叙伝的小説であるにも拘わらず、著者の死後37年たった今年、日本で発売され話題となった。ロマン・ガリは小説家であり、映画監督、外交官でもあった。
1914年ロマン・ガリ(本名ロマン・カツェフ)は、現在リトアニア共和国のヴィリニュス、当時ロシア帝国のヴィリアと呼ばれた町で生まれた。この小説の中では、ヴィリアで、”私”ことロマン・ガリと母との2人の生活は、当初、けして豊かではなかったが、母は息子の生活を賄うため、仕事を変えながら、持ち前の商才を生かして、貴婦人たちのドレスを仕立てる高級サロンを開くまでになった。息子である”私”こと、ロマン・ガリの病気による療養でヴィリアを離れたことにより、店の経営がうまくいかなくなり、追われるようにポーランドのワルシャワへ移り、そこでもあらゆる仕事をし、遂になんとか母の憧れであったフランスへ、移ることになったのであった。その場所は、地中海に面するニース。
父のことは、息子である”私”にはあまり語らなかったようだ。常に、一人息子に、多大なる期待し、褒めたたえた。息子の才能を見い出すためならば、スポーツ、芸術、様々なものを試させた。1人息子の将来への投資の為には、お金も惜しまなかった。いつしか母は息子は「フランス大使」になるといい、彼も母の期待に応え、ひとかどの人物になりたいと思い続けた。
ニースに移り、母はロシア時代からのサモワールを売ることで当座生活できると思っていたが、あては外れた。しかし、人をも動かす熱意の甲斐あり、骨董の委託販売や不動産仲介など仕事をし、その後、ビュファ市場へ続く、ダンテ通りを見下ろせるペンションホテル「Mermonts (メールモン)」を女主人として切り盛りするようになった。
ペンションホテルメールモン(L’hôtel-Pension Mermonts)。Merは海で、Montsは山。
小説の中でも出てくる、ロマン・ガリの母が切り盛りしていたペンションホテルだ。私はメールモンがまだニースにあるのかが気になった。そして、ビュファ市場?ダンテ通り。
今は便利で、Google MAPで調べれば、ホテルネグレスコの裏手を少し行ったところにあるダンテ通りもすぐに出てくる。ダンテ通りの先が、ビュファ通りと出ている。ビュファ市場は見つけられなかったが、おそらく、このあたりにペンションホテル「メールモン」があったのではないか考えながら、さらに調べていくと、ペンションホテル「Mermonts (メールモン)」の建物は、今も健在で、”イストラ・エージェンシー”という不動産の会社の持ち物となっているようだ。
その不動産会社のウェブサイトに掲載されている写真の建物は、ロマン・ガリ著のこの「夜明けの約束」で出てきたペンションホテル「メールモン」(L’hôtel-Pension Mermonts)ということが書かれているようだ。(フランス語はよくわからないので、翻訳ソフトで読んでみた)ロマン・ガリの名が大理石のプレートにも刻まれているようだ。
ロマン・ガリは、学生時代から文章を書くことが自分には合っていて、進むべき道だと理解し、執筆を始めていた。大学では、エクサンプロヴァンス大学で法学を学び、ニースを離れた。パリに移り、貧乏でどん底な時もあったが、雑誌に彼の文章が初めて掲載された。
その後、サロン・ド・プロヴァンスの空軍士官学校に進んだ。帰化してから時間が短い彼だけ士官になれないという挫折を味わう。時代は、ヒトラ―が台頭し、負けるはずのないフランスが苦戦を強いられ、戦地で多くの仲間が死んでいき、”私”は九死に一生を得て生き延びていた。母はペンションホテル「メールモン」を切り盛りしながら、遠い戦地で戦う息子を手紙で励まし続けた。
訳者のあとがきにもあったが、第42章の言葉は印象深い。
「おそらくたとえ母親であったとしてもたった一人の人間をあれほどまでに愛するのは許されないことだ。」
過剰な程の惜しみない母の愛。一人息子を持つ母である私自身、何とも表現のしようのない、ため息のようなものがでてしまう。そして、息子と母との別れは必ずあり、この小説の中でも、それが訪れるわけであるが、そこにおいても、息子への母の愛情あふれるサプライズ待ち構えている。
ニースに行って小説の中にもでてくる、海沿いの大通りプロムナードザングレや彼が帰省すると出かけた”グランブルー”の海水浴場や、”L’hôtel-Pension Mermonts”だった場所から、ダンテ通りとビュファ通りを歩いてみたら、ロマン・ガリが見ていた小説の中の風景に近づくことができるかもしれない。
この小説の回想の中には、始終、母のいない喪失感のようなものが漂っている。これを読んだ母は、いったいどう感じるのだろう。
夜明けの約束 (世界浪曼派) / ロマン・ガリ著 ; 岩津 航訳
東京 : 共和国 , 2017
333p ; 19㎝
書名原綴: La Promesse de l'aube
著者原綴: Romain Gary
第20号:『心変わり』・・・ローマへの列車の中で
先日、お客様のローマの旅の手配をしていて、ボッロミーニが設計したサン・カルロ・アッレ・クアトロファンターネ教会の近くのホテルを予約した。このクワトロフォンターネという名前の通り、4つの泉が四つ角にある近辺には、バロック全盛のころ、ボッロミー二とライバルとして争ったベルニーニが作った作品が多くある。
ベルニーニといえば、サン・ピエトロ広場を設計したことで有名であるが、このクワトロフォンターネに近いバルベリーニ広場のトリトーネの泉やバルベリーニ家の紋章の蜂を飾る蜂の噴水もベルニーニの作品である。
ボッロミー二を思いだすとき、いつもこのミッシェル・ビュトール著の『心変わり』を思いだす。1950年代半ばに書かれた小説で、2人称で構成されているところが珍しい。
パリに住む主人公「きみ」は、ローマのフランス大使館に勤務する「彼女」セシルに会いに行く。早朝発の21時間35分(パリ・リオン駅ーローマ・テルミニ駅間)の3等車室の中で、「きみ」が回想し、まさに”心変わり”を起こす過程が描かれている。
いつもは商用で1等車でローマまで来ていた。でも今回の旅は、3等車の旅で商用でなく、休暇を取った自腹の旅である。
「きみ」は妻アンリエットと別れて、「彼女」セシルと一緒に暮らすことができるように、パリでのセシルの仕事を見つけてきたことを言いに行くつもりだった。
しかし、「きみ」はこの1等車を利用していたときよりも、2時間55分もさらに時間がかかる窮屈な3等車室の中で、いろいろなことを回想し、思いを巡らし、ついに第3章で”心変わり”(LA MODIFICATION)と言葉をだす。
その言葉までたどり着くまでが、小説としても長く、この旅の長さがうかがえる。
その回想の中には、バロック好きだった2人がデートした様子が描かれ、ベルニーニとボッロミーに作品を見て歩いた日のことが書かれていたりする。2人の関係はローマ・カトリックの考えに背くと2人はヴァチカンを嫌っていた。
そして、「きみ」がこの結論に至るにあたって、「彼女」セシルへの愛は、ほかならぬローマという都市の魅力でもあったと悟るのであった。
ええっー、そんな結論??と女性の私は思ってしまうのだが、なんとなくわかるなーとも思うのだった。ローマのバロックを見て歩くデートとはどんなに素敵なものだっただろうと思う。ローマの眩しくあかるい日差しの中、バロックの両巨匠の作品を見て歩くデートか・・・。こんな風に素敵にローマの町自体を描く小説はなかなかないと思う。
1950年代、21時間半程かかったパリからローマへの列車の道のりは、いまでもミラノまたはトリノ乗換でも11~12時間かかる。ナポレオンも超えたとされるグラン・サンベルナール峠のあたりを通過する「きみ」が旅した列車の旅は、「心変わり」が起きても仕方ないほどの長い道のりだったのだろう。
心変わり / ミシェル・ビュトール著 ; 清水 徹訳
東京 : 岩波書店 , 2005
482p ; 15㎝
書名原綴: Modification,La
著者原綴: Michel Butor