第15号:「リスボンへの夜行列車」に乗ってみようか

主人公のグレゴリウスは、スイスのベルンにあるギムナジウムヘブライ語ギリシャ語の教師をしていた。

 

ある雨の日に勤務するギムナジウムへ向かう途中のキルフェンフェルト橋から飛び降りようとした女を彼は引き留め、その女に「あなたの母国語はなんですか?」と問い、女は「ポルトゲ―シュ(ポルトガル語)」と答えた。彼のおでこに、忘れたくないという電話番号を書き残して。

 

そして、勉学に打ち込みギムナジウムでも最も信頼される教師としてやってきたグレゴリウスだったが、突然授業放棄し、古書店に立ち寄り、いままで唯一関係がなかったともいえるポルトガル語の1冊の本を買い、女を追いかけるように、ポルトガルを目指して、列車に飛び乗ってしまった。列車は、途中、ジュネーブ、別れた妻との苦い思い出の残るパリ(リヨン駅に着き、モンパルナスへ移動するタクシーで回想する)、イルン、ビアリッツを経由してリスボンへ。

 

リスボンに着き、グレゴリウスは、ベルンの古書店で買った「赤い杉」という本の著者のアマデウ・デ・プラドという医師だった男を知りたくなり、一つ一つ彼に近づく糸を辿っていく。

 

非の打ちどころがなく、優秀で慕われる医師だったアマデウが、医師として、独裁政治の体制のなかで虐殺者とよばれた人物を助けたことで、その日を境に人々が離れていった。そして、彼はレジスタンスとして生きることを決める。誰に知られることもなく、秘密裏に、彼が死んでからその事実が知られることになるわけだが。

 

グレゴリウスはなぜか、全く自分とは違う境遇(アマデウは上流階級ですべてに恵まれていた)の彼に興味を持ち、そして、彼を知る人々に逢い、彼らとも心を通わせながら、彼の人生を知ることで、自分の人生をもう一度見つめなおす。

 

旅には、たしかにグレゴリウスほどではなくても、自分を見つめなおすきっかけになることがあると思う。

 

この「リスボンへの夜行列車」の著者は、哲学者であるらしく、まさにすんなりと入っていかれる哲学書を読んだような読後感がある。そして、アマデウがとても愛した美しいリスボンに行きたくなる。

 

映画はまだ見ていないが、だいぶ前に日本でも公開していたようだ。ジェレミー・アイアンズがグレゴリウスを演じていて少し原作とは違うと友人から聞いている。

 

リスボンへの夜行列車

リスボンへの夜行列車 / パスカル・メルシェ著 ; 浅井 晶子訳

東京 ; 早川書房 , 2012

486p ; 20㎝

書名原綴: Nachtzug nach Lissabon

 

 

 

 

 

第14号:「優雅なハリネズミ」の住む場所?

サマーバケーションとして、7月7日の七夕の京都の記事からずっとお休みしていましたが、旧暦の七夕も過ぎて、そろそろバケーションも終わりでしょ、という時期になりました。

 

もうすっかり秋ですね。こんなに夏が短く、物足りなさを感じた夏って、ここ最近ありませんでした。なんとなく、さびしくなったりします。

 

ミュリエル・バルベリ著『優雅なハリネズミ』は、パリのグルネル通り7番地の高級アパルトマンで管理人をしているポルトガル出身のルネ(マダム・ミシェル)と、そのアパルトマンに住むジョゼ家の次女で12歳のパロマの文章で構成されています。それぞれの文章は字体が変えてあります。

 

ルネこと、マダム・ミシェルは、ポルトガル人で、管理人というイメージ(高級アパルトマンの住人は少し下に見ていて、ルネに対する慇懃無礼な様子が描かれています)よりも、とても知的で、音楽、絵画など芸術やあらゆることに造詣が深く、いつも知的な本を読んでいたりします。しかし、それが住人に見つからると面倒なこともあり、いつも誰からもわからないようにしています。夫が亡くなった後は一人暮らしをしていますが、唯一、マダム・ミシェルの知的で優雅な暮らしぶりを知るのは、同じくポルトガル人で、家政婦をしていて、最高の手作り菓子を作り、それを持ってマダム・ミシェルのところにお茶をしに来るマニュエラだけです。彼女も、貴婦人と呼ぶにふさわしい人物です。

 

パロマは、自殺願望があり、このアパルトマンに火をつけるつもりでしたが、ルネと、のちほど引っ越してくるオヅ氏(日本人)との出会いによって、その考えが変わってきます。

 

パロマがマダム・ミシェルと初めてちゃんと話をしたときに、パロマのかしこさと、ルネの知性はお互いに通じるものがありました。パロマは、マダム・ミシェルをこう評しています。

マダム・ミシェルは優雅なハリネズミです。外見は棘でがっちりした砦で覆っているけれども、心はとても高貴な人です。ものぐさなふりをして、頑として孤独を守り、すばらしく洗練されている。まさにハリネズミです。

アパルトマンの高名な料理評論家のアルサン氏(なんともいけ好かない人物でしたが)が急死し、売りに出された部屋を洗練された部屋に大改装し、引っ越してきたのがオヅ氏でした。

 

オヅ氏(小津監督の遠縁という設定)は、洗練されていて、しかもやさしく紳士的。

ルネの飼っているネコは、レオン・トルストイの名からとって、レオン。オヅ氏のネコは、レーヴィンとキティという名で、ロシアの大作家と彼が愛した女の名前。

 

オヅ氏は、マダム・ミシェルの知性をすぐに見破り、オヅ氏はマダム・ミシェルをよく知りたいと思うようになりました。オヅ氏とマダム・ミシェルがさらに親愛なる友人えとなるべく交友を深めていたある日・・・。

 

たまたま、この本を読んだすぐあとに、英国を扱った旅番組があり、英国では、「ハリネズミは美しい庭にしか現れない」と言われていると聞いて、この小説は舞台はパリですが、なるほど~と妙に納得してしまいました。

 

優雅なハリネズミ

優雅なハリネズミ / ミュリエル・バルベリ著 ; 河村 真紀子訳

東京 : 早川書房, 2008

372p , 19㎝

原文書名:  L'elegance du herisson

著者原綴: Barbery, Muriel

 

第13号:ほんとに「京都ぎらい」?

著者の井上章一さんが、以前BSの「久米書店」という番組に出ていました。「久米書店」自体が終わってしまったので、私としては寂しい限りなんですが、そこで著者自らこの本を紹介されていました。

 

生粋の京都人が言う、本当の「京都」という範囲は本当に狭いものだということが、この本にも書かれています。

 

関東人の私から見れば、京都市内は「京都」でしょ?という感じでいましたが、京都市内と言っても実際には広く、嵐山嵯峨野のほうもあれば、宇治寄りのエリアも長岡京市寄りのエリアも含まれており、そういう生粋の京都人の気持ちもわからなくもありません。またそこには、生粋の京都人ならではの、よそ者へのアイロニーも感じます。

 

そこらへんは、これまた大好きな番組(なのに、先日完結した様子・・・)、BSプレミアで不定期に放送されていた「京都人の密かな愉しみ」という番組にも嫌というほど、描かれていますね。

 

昨年の8月お盆の送り火のすぐ後に、私は京都に遊びに行きましたが、この本を読む前だったので、もっと早く読めでおけばよかったと後悔しきり・・・。

 

夜、嵐山の鵜飼いを見に行ったんですが、嵐山・嵯峨野近辺には、南北朝時代天皇と関連する地名が見られます。南北朝のきっかけとなったのは後嵯峨天皇ですし、その近くには南朝派の亀山天皇と同じ亀山という地名があったりという感じです。

 

南朝派(大覚寺統)が帰依した大覚寺があったり、北朝派(持明院統)側に付いて、その後室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石によって作らせた天龍寺があり、天龍寺南朝派の鎮魂の寺という意味もあるそうです。

 

教科書で見ていた歴史が、現在と繋がってゆくような感じがして、歴史の奥深さを感じるのでした。

 

次行くときには、もう一度読んでから出かけてみよう!

 

<お知らせ>

来週からサマーバケーション(聞こえはいいのですが・・・)の為、

このブログはお休みさせていただきます。

 

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい / 井上 章一著

東京 : 朝日新書 , 2015

224p ; 18㎝

 

<これまた私にとっての京都ブームの火付け役>

鴨川食堂 (小学館文庫)

鴨川食堂  / 柏井 壽著

東京 : 小学館文庫 , 2015

253p ; 15㎝

 

 

 

 

第12号:今現在のテヘランは?「テヘランでロリータを読む」

テヘランでロリータを読む」は、先日読んだ西加奈子さんの「i」にも重要な要素として出てきていたので、読んでみたいと思っていた。

 

 

タイトルからすると「ロリータ」と出てくると、なんとなくセンセーショナルで、1997年のジェレミー・アイアンズ主演の映画がぱっと浮かんできてしまう。

 

この著者アーザル・ナフィーシーさんは、もともとイランの英米文学の教授であり、自宅で数人の教え子と研究会(民主主義の国で、今の時代なら読書会というイメージを持った)をおこなっており、その研究会のテーマがナブコフ著の「ロリータ」だったのでである。この本は、1979年のイスラーム革命から18年間のテヘランでのことを書いている。

 

大学の授業のなかでは、他にもテーマは、フィッツジェラルド著の「ギャツビー」だったり、ヘンリー・ジェイムズ著「ワシントンスクエア」だったり、その他いろいろな作品が取り上げられている。イランという場所で、それらの小説は共感を持って受け入れられる一方、西洋文化の退廃的な思想があるとして絶対に受け入れられないという人(特に男子学生)たちもいて、根深さを感じざる得ない。

 

そう、1995年のテヘランで、発禁になっている「ロリータ」を含む英米文学を読むということはどういうことなのか。「i」にもあったように、“想像しみること”が大事なんだと思う。

 

私はこの本で、イランで起こったイスラーム革命について、イラン・イラク戦争について、初めて触れた気がする。

 

何も知らなかった自分がいる、1970年代後半のイスラーム革命前に構想されたとされる五木寛之氏の「燃える秋」を読んで、ペルシャ絨毯にひかれて、会社を辞めて、イランへ行ってしまう主人公亜紀がどんなところへ行くのか、本を読んでいても想像もつかなかったのだ。

 

1970年代中盤までは、もっとイランは自由な時代であったと考えられる。その頃のイランは一体どのように、この著者の描く1980ー90年代とどのように違ったのだろう。

 

そして今のイランを知りたくなった。前の会社でもイランのツアーは情勢次第で販売したり、しなかったりということがあったが、最近の状況を見ると、大手の会社でも、ツアーを出し始めているということは、情勢としては安定してきているのかもしれないと思う。旅行が販売されるか、されないかを情勢をみる基準にしている部分もある。日本の旅行会社は外務省の安全情報をもとに、判断している部分が大きいので、大手で販売しているとなれば、情勢から考えて旅行としては概ね問題ないのだろう。

 

著者がいたころのイランは、女性は地味な色合いの、すっぽりと体を覆うコートを着ていて、スカーフが頭からずれたり、髪がはみ出すことさえも、注意を受けたという。マニキュアはおろか化粧さえもしてはいけないという状況だったと書かれている。指導者が変わるごとにそれは緩和もされたりするのであるが・・・。

 

いまはそういう時代と比べれば、緩和されたようである。しかし、女性の地位はこの本の頃よりも改善されたのだろうか。こういうことは、実際旅に行ってみないとわからない。

 

この本を読むと、以下に、政治(イランにおいては指導者であるといえる)が大事であるかがわかるし、政教分離ということがいかに大事なのかがわかる。

 

自由(思想や表現の自由等)は一度手放すと、取り戻すことがものすごく大変なんだと思う。

 

 

テヘランでロリータを読む(新装版)

テヘランでロリータを読む / アーザル・ナフィーシー著 ; 市川 恵里訳

東京 : 白水社 ,  2017  

485p ; 19㎝

英文原綴: Reading Lolita in Tehran

著者原綴: Azar Nafisi

 

i(アイ)

 

i(アイ)  /  西 加奈子著 

東京 : ポプラ社 , 2016

298p ; 19㎝

 

燃える秋 (五木寛之の恋愛小説)

燃える秋  /  五木 寛之著

東京 : 角川書店 ,2008

207p ; 19cm  

 

第11号:「本格小説」で描き出される古き良き軽井沢

おはようございます。

梅雨の晴れ間というのは、なんとも気持ちが良く、とても好きなひと時です。

 

このブログを書くために、書きためてきた感想文ノートを何冊も見返しますが、そうすると不思議と仕事のストレスや、落ち込んでいたこともふっと消え、また歩き出す気持ちになります。

 

軽井沢は少し湿気が多いので、別荘が立ち並ぶ林の中では、晴れた日でも空気がひんやりしていて、木漏れ日が少しさしこみ、私のなかで、軽井沢らしいと思える風景があります。

 

今日は、水村美苗さんの書いた「本格小説」を紹介します。

この作品は私小説のスタイルをとっていて、あらすじは、著者(という想定)が家族でニューヨークに赴任していたときに出会った実業家東太郎の印象が書かれ、後年、壮年になった東太郎と軽井沢で出会った祐介という青年が、アメリカで講師をしていた著者に運んできた土屋冨美子が語った東太郎とよう子、そしてそれを取り巻く人々の話から展開します。

 

東太郎というアメリカンドリームをつかんだ日本人実業家を辿っていくうちに、そこに関わった人たちもこの物語の重要な登場人物となります。隣り合わせに住まいを構えていた三枝家と重光家、三枝家の次女夏絵が嫁いだ宇多川家の人々。その中でも、東太郎と深く関わったよう子(夏絵の娘)、宇多川家に“女中”として働いた土屋冨美子が東太郎とどのように関わり生きたのか、そんな女達の人生も書かれているのです。

 

東太郎が宇多川家の敷地の中の貸家に親戚家族と身を寄せて、程なくよう子と子供ながらにどんどんと二人の世界を広げていくことから始まります。親戚に引き取られた太郎はことごとく、虐げられ、友だちもおらず、いつもみすぼらしい姿でいるのでした。それを宇多川家の先代の後家であるおばあさまが太郎に愛情をかけ、他人とは思えないほどによう子と分け隔てなく、かわいがったのでした。

 

もちろん、よう子の母夏絵の実家の三枝家は身分違いの二人が兄弟のように過ごすのを良く思っていなかったのですが、それをさとられないようにサポートしていたのが”女中”の冨美子でした。太郎とよう子も高校生となり、太郎をかわいがった宇多川のおばあさまが亡くなり、北海道に転勤で移った宇多川家と太郎は離れ離れになりましたが、よう子と太郎は隠れて文通をしていたのでした。大人になって男女として惹かれあう二人ですが、軽井沢でのある“不始末”をきっかけに会わなくなってしまいます。そして、太郎はアメリカに発ったのでした。

 

その後、太郎はアメリカで飛ぶ鳥を落とすように、成功して行き、億万長者になったのでした。その太郎の話を祐介が著者に運んできたときには、すでに東太郎は行方知れずになっていたのです・・・。

  

登場人物たちの戦後からの長い歳月を描き出したこの「本格小説」は、かなりボリュームがあり、その展開にどんどんと引き込まれています。

 

三枝家と重光家は、成城、軽井沢の両住まいともに隣同士に構えており、長くそして密接なつきあいをしていました。

 

戦後、成城の家は一時期GHQに接収されたりした時代ですから、軽井沢は単なる夏の避暑としてでなく、戦火を逃れるために両家は軽井沢で過ごすわけですが、その生活は、時代を忘れさせるくらい、(庶民からみると)優雅で、穏やかで、古き良き美しい軽井沢が描かれているのです。

 

私自体が、軽井沢に初めて行ったのは小学生のころ、1980年代で、実際に1,2年おきによく行っていたのは高校生以降ですから、1990年代です。アウトレットが出来た以降は、私自身、軽井沢への目的はゴルフに変わってしましました。

 

年々、軽井沢の様子は変わり、旧軽を初めて歩いたころの高揚感はすっかり失くして久しくなりますが、それでも、こないだのドラマ「カルテッド」のように、生活の場として、冬の軽井沢を見ると、なんとなく行ってみたいと思うのでした。

 

初夏を過ぎると、夏の計画を考えますが、何年かに一度は、軽井沢が候補にあがります。結局は、私が軽井沢をイメージするとき、初めて行った80年代の旧軽のイメージとこの小説の古き良き軽井沢がオーバーラップして、ついその面影を探そうとしてしまうのでした。

 

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈下〉 (新潮文庫)

本格小説  上 / 水村 美苗著

東京 : 新潮社, 2005

605p ; 15㎝  

 

格小説 下 /   水村 美苗著

東京 : 新潮社,  2005

540p ; 15㎝

 

 

 

第10号:「リーチ先生」がたどり着いた地

“リーチ・ポタリ―”と呼ばれるバーナード・リーチの窯があるイギリスのコンウォール州のセント・アイヴス。

 

以前勤めていた旅行会社で、コーンウォールを観光するツアーがあって、セント・アイヴスを入れていたことがある。バーナード・リーチを知る人にとっては是非とも行ってみたい場所(私もその1人)であるが、知らない人にとっては、「つまらなかった。時間の無駄。」となってしまうらしい。常々思うことだけど、旅の楽しみ方はひとそれぞれ。結局は、なにが自分の心に響くかというところだと思う。

 

この小説は、原田マハさんによるものであるが、物語の中で、バーナード・リーチがイギリスから来日し、どのように生活し、彼なりの芸術活動を行い、民藝運動の中心人物である柳宗悦らと知り合い、陶芸そして日本に魅せられていったのかということが描かれている。

 

登場人物の沖高市という青年が、大分県の小鹿田(おんた)焼の窯元に訪れたリーチ先生の世話係に任命されるところから話が始まる。高市の亡き父・亀乃介も、この小鹿田の隣の小石原という場所に自分の窯を持つ前の若き日に、リーチ先生の助手として、最も彼の身近にいた人物だった。

 

リーチ先生は亀乃介を伴い、陶芸の窯を求めて、いくつかの地を経て、千葉県我孫子の柳邸の近くに窯を構え、創作活動にはげみ、手賀沼の湖畔の風景を気に入っていた。そして、その地を後ろ髪を引かれながらも離れなければならず、東京の麻布に移り、その後、イギリス人の妻とともに、故郷のイギリスへ帰っていった。

 

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そして、リーチがイギリスでたどり着いた地が、セント・アイヴス。イギリスの地図の南西に突き出すように伸びるコーンウォール半島の突端に近い町である。そこで、彼は陶芸に合う土を見つけ出すためにさまよい歩き、やっと自分の理想とする窯をセント・アイヴスに築き上げたのだった。そして、物語の最後に、高市が向かう場所は・・・。

 

5年ぐらい前に、日本橋高島屋で、「バーナード・リーチ展」が開催されて、その展覧会の脇では、「用の美」という言葉が吊りさげられ、バーナード・リーチが訪れた全国各地の窯で焼かれた陶器、その他、家具や平たく言うと民芸品と呼ばれるものの販売も行われていた。私はその時、初めて、小鹿田(おんた)焼の飛び鉋と刷毛目の皿と波佐見焼のマグを買った。それ以来、民藝運動にご執心である。

 

もちろん、洋食器で好きなものもあるが、リーチが影響を与えたとされる全国各地の窯の作品は、なんとなく小粋さがあると思う。日常的に、それらの器を使うたびに、まさに「用の美」だなと実感できるのである。

 

リーチ先生

リーチ先生  / 原田 マハ [著]

東京 : 集英社, 2016

472p ; 20㎝

 

 

 

 

第9号:いつかは自分の足で歩いてみたいサンチャゴ巡礼道「巡礼コメディ旅日記」

1週間はあっという間に過ぎていきますね。年52週、第52号まであっという間かもしれません。

 

著者はドイツ人のコメディアンのハーペイ・カーケリングさん。2009年にドイツで発刊されてベストセラーになった「巡礼コメディ旅日記 僕のサンチャゴ巡礼の道」は、37歳だったカーケリングさんがサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道をフランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを起点として進んでいった800kmの巡礼の記録。

 

はじめは、特に親しくなる人もなく孤独に歩き続け、他人に対して、やや懐疑的だった様子もある。しかし長い道のりを歩いて行くと、嫌でもたくさんの人と遭遇し、自己中心的な人物や、自分の泣き所をついてきて憤らせる人もいる。それは、自分を鏡を見ているとふと気づく。

 

長い道のりの中で、自分の人生をふりかえり、そんな人々との出会いさえも、自分への試練だと思えてきたりする。

 

時に、人は時間と自分の体をたっぷり使ってみないと気づけないことがあるのかもしれないとこの本を読んで思った。

 

もう1冊、女優としても大好きなシャーリ・マクレーンの書いた「The Camino カミ―ノ魂の旅路」。これも、サンチャゴ巡礼道の話であるが、カーケリングさんの話にも前世についての話が出てくるがこの本も前世についてのことが出てきて、よりスピリチャルな内容になっている。これまた、巡礼道を歩いていると、協力者が現れたり、裏切り者が現れたりする。

 

何とも2冊ともエキサイティングで、面白く読み進められる。そして、「自分は何者か」というところに行きつくようである。私はいったい何者なのだろう。

 

 

巡礼コメディ旅日記――僕のサンティアゴ巡礼の道

巡礼コメディ旅日記 : 僕のサンティアゴ巡礼の道  

/ ハーペイ・カーケリング (著) ;  猪股 和夫 (訳)

東京 ;  みすず書房  , 2010

368p  ;  19㎝

原書名: Ich bin dann mal weg 
著者原綴:  Hape Kerkeling

 

カミーノ ― 魂の旅路

カミーノ  : 魂の旅路 

/ シャーリー マクレーン (著) ;  山川 紘矢 (訳), 山川 亜希子 (訳)

東京 ; 飛鳥新書 ,  2001 

332p ; 19㎝

英文書名: The Camino

著者原綴: Shirley MacLaine