umemedaka-style’s diary

本と旅をつなぐブログ

第60号:1980年という年・・・「ボローニャの吐息」

2017年に発行された内田洋子さんの「ボローニャの吐息」は、ジャケ買いならぬ表紙買い&タイトル買いしてしまった本である。

 

タイトルは、ボローニャ?と思い、よく見ると表紙はボローニャの屋根付きアーケード「ポルティコ」と煉瓦の聖堂の夜の様子を撮影したもの。

 

読んでみると、ボローニャの話は一向に出てこずに、ミラノやロードス島などの短編が続く、それはそれでどの話も滋味深く面白い。でも、それが全く関係ない話でなく、つながりがあるので、さすが内田さんだと思う。

 

そして、最後から2つ目の短編のタイトルに「ボローニャの吐息」が出てくる。

 

ボローニャは、ずいぶん前にもう14,15年前だろうか、友人が留学しているのでボローニャに出かけていって、2週間弱過ごした。ボローニャを起点に、ラヴェンナフィレンツェパルマ、チンクエテッレなどにショートトリップに出かけた。

 

3月の最後の週末にかかっていて、その年は、イースター(パスクワ)で、夏時間にも変わるというちょうど春を迎えるという雰囲気の時期だった。

 

友人とは、パスクワにチンクエテッレに1泊で出かけ、彼女は学校が忙しかったので、1人で近辺の町に右往左往と出かけた。

 

どこに行くにもボローニャ駅を利用して、この「ボローニャの吐息」に出てくる、1980年のボローニャ駅爆破テロの碑の脇を通りながら、この駅にそんな惨劇があったことが信じられないという思いで眺めつつ通り過ぎていた。

 

内田さんの「ボローニャの吐息」では、もう一つの同じく1980年にボローニャパレルモ行きのイタビア870便の「空対空ミサイル」による空中爆発の機材がボローニャ郊外に「鎮魂の芸術」として展示されている話を読んで、先週第59号で書いた初めて私が知ったイタリア統治後のリビアとの複雑な事情等があった1980年であったことが、線としてつながった。どちらも多くの命が無差別に奪われ、そこまでの主義主張とはどういう意味があったのかさえも判然とせず、どちらもいまだ解決しないまま時が経ったことを改めて知る。

 

ボローニャの吐息」という一見するとセンチメンタルで甘い印象だったタイトルがこのような内容で、私にとっては先週の本とつながるのは何か意味があるのかなと考えてしまった。

 

ボローニャの吐息

ボローニャの吐息 / 内田洋子著

東京 : 小学館 , 2017

365p ; 20㎝

 

 

 

 

 

 

第59号:平和でないと旅には出られない・・・「帰還 父と息子を分かつ国」

2018年11月日本で翻訳されたリビア人の作家ヒシャール・マタール著の「帰還」を読んだ。近い過去で、問題が解決していないことにやるせない気持ちになった。

 

著者は1970年ニューヨーク生まれである。両親はリビア人で、著者は父の赴任先で生まれた。幼少期をリビアの首都トリポリで過ごすが、一家は80年代にはリビアを離れエジプトのカイロで過ごすことになる。著者の父は政府の仕事を辞め、貿易商として財を築き、反体制運動のリーダーとして活動していた。

 

著者の生まれるすぐ前の1969年に、27歳だったムアンマル・カダフィ(のちのカダフィ大佐)がクーデターを起こし、イドーリス国王を退位させた。そして、表向きは「直接民主主義体制」という名で政権を握り、権力を自身に集中させた。以後42年間、カダフィ政権が続いた。

 

著者は、2009年にチュニジアに端を発した「アラブの春」からの北アフリカ民主化運動が起こり、2011年にリビアカダフィ政権が倒され、やっと民主化へ舵が切られたと思われた束の間の2012年3月にリビアへ帰還したときのことと、リビアの内政、アブサリム刑務所のことなどが織り交ぜて書かれている。

 

1989年、著者の父はジャーバッラーは拉致された。当初エジプトで収監されているという情報を耳にしたが、リビアの主に政治犯収監するアブサリム刑務所で見かけたという協力者の証言からリビアに連れ去られたことが判明する。そして、数々の収容者の証言からも、著者の父は反体制派のリーダーとして、特にカダフィ政権から敵視されていた印象を感じる。

 

著者の親戚も4人収監され、後に釈放されたことで、父がアブサリムにいたことは後にはっきりしたが、カダフィ政権が倒され、アブサリム刑務所が大槌で破壊されたが父の行方は結局分からなかった。

 

著者のイギリスでの父の行方を知るための活動、カダフィ政権崩壊寸前まで続いたカダフィの次男とのやりとりなど、興味深いものがある。

 

現在のリビアは、著者が帰還したころの束の間の民主化への動きも結局実らず、2018年12月に行われるはずだった大統領選挙も結局延期になり、アラブの春民主化運動の際に政権を取った「トブルク政権」とイスラム勢力の「トリポリ政権」が対立するという新たな問題が起きている。

 

以前勤めていた会社で、カダフィ―政権だったころの2006、7年頃まで、リビアへのツアーを出していたことがある。警察とレンジャーが護送し、シェフを伴って移動するキャラバン型のツアーだった。その後は、リビアのツアーは販売中止になったが、皮肉にもカダフィ政権の時には旅が出来るほど安定していたのかもしれない。

 

この本を読んで、著者のいとこで、反体制派として若くして戦い亡くなっていった人たちを知ると、国の平均寿命が長いということは、戦争が長いことないということなのだと実感する。

 

そして、旅に出られるのも、旅に来てもらえる国というのも平和がベースになっているとあらためて思う。

 

帰還: 父と息子を分かつ国

 

帰還 / ヒシャーム・マタール著 ; 金原瑞人・野沢佳織訳

東京 : 人文書院 ,  2018  

309p ; 20㎝

英文原綴: The Return :Father,sons and the land in between

著者原綴: Hisham Matar

第58号:マウリッツハイツ美術館の窓・・・「常設展示室」

原田マハさんの「常設展示室」を友人から借りた時に、表紙の絵を見て、「あっ、この配置、見たことある」と思わず言ってしまいました。

 

この本の装丁は、オランダのハーグにあるマウリッツハイツ美術館の展示室の写真です。フェルメールの「デルフトの眺望」の絵が展示されていて、瞬間的に、私もその場所に引き戻されたような感じがしました。

 

この本では、美術館で学芸員をする女性や、画廊で働く女性を主人公に、美術館の常設展示室を絡めた短編集になっています。マウリッツハイツ以外に、ニューヨークのメトロポリタン美術家やパリ近代美術館、日本の国立近代美術館などを題材にしています。

 

このマウリッツハイツ美術館の短編は、画廊に勤める主人公がスカイツリーの近くの、やっと気に入ることの出来た介護施設に父を入れることが出来て、弟が主に父を看てくれることになり、オランダに出張に行っているときに、父が逝ってしまうのですが、オランダ出張で立ち寄ったマウリッツハイツ美術館で「デルフトの眺望」に遭遇することが書かれています。

 

マウリッツハイツ美術館といえば、フェルメールの「デルフトの眺望」よりも、彼の描いた「真珠の首飾りの少女」を目当てで出かける人が多いのではないでしょうか。

 

先日もフェルメール展が上野の森美術館であり、それはとてもとても盛況でしたが、フェルメールが生涯に描いた30数点の中でも、もっとも有名といえるのが「真珠の首飾りの少女」ですが、こちらの作品は日本には来ませんでした。それでも、一番多い時期で、9点近くが日本に来ていたというのは、やはりなかなかないことなので、遠方から来た方も多いようです。

 

マウリッツハイツ美術館には、オランダ・ベルギーのシーズンには、また来ちゃったというような感じで、たびたび出かけることがありました。

 

思った以上に小さな邸宅が美術館になっていて、個人宅に出かけたよな雰囲気の美術館で、階段を上がった端の方の部屋に「真珠の首飾りの少女」と、この「デルフトの眺望」が展示されていました。

 

私が行っていたころには、人だかりになることもなく、間近で少女と対面できる感じでした。そして、「デルフトの眺望」もじっくりと鑑賞できたことも覚えています。ツアーでは必ずデルフトの眺望が描かれた場所も車窓からですが見られるので、いつも絵の雰囲気のままだなと思いながら通過するのが常でした。

 

私の中のマウリッツハイツ美術館のもう一つのエピソードとしては、マウリッツハイツ美術館の入り口の近くに、オランダの名物の”ハーリング Haring”(一日塩漬けした生ニシンを塩抜きに玉ねぎのみじん切りが添えてある)のスタンドが出ていて、そこのハーリングは評判がよく、美術館を早めに出ると真っ先にそこに行って、ハーリングを手で吊り下げて、上を向いてぺろりと一口で食べるのも楽しみだったということです。

 

日本人はイワシのお刺身も食べるので、生魚に近いものも抵抗はありませんが、オランダの人も国民食という感じでこのハーリングを食べるのは不思議な感じがしました。

 

花より団子というか、絵よりもハーリングみたいな感じになってしまいましたが、マウリッツハイツ美術館は本当に小さな美術館ですが、落ち着いた雰囲気のあるかつての首都ハーグの町にもなじんでいて、行く価値のある美術館だと思います。

 

常設展示室: Permanent Collection

常設展示室 / 原田 マハ著

東京: 新潮社 , 2018

p190 ; 20cm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第57号:ドナウの水面を想う・・・「ドナウの旅人」

いまちょうど、ブダペストに行くお客様への案内を考えていた。

前号のプラハでも書いたように、中欧の旅の1つとしてハンガリーブダペストには、以前はよく行った。ドナウ川をはさんで、西側のブダ地区と東側のペシュト地区が一緒になってブダペシュト。

ドナウ川

ヨーロッパ中部から東部を流れる川。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の長流で,全長約 2850km,流域面積約 81万 5000km2

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

チェコスロバキアからハンガリーに入ってくると、またちょっと人の雰囲気も言葉もスラブ系とは違う雰囲気になる。

 

ハンガリーの人は子供時代には、日本人と同じようにおしりに蒙古斑があり、欧米圏では通常、名前がファーストネーム(名)、ラストネーム(姓)となるが、ハンガリーの人は姓が先で、名前が後で、日本人と同じような並びだとその当時ガイドから説明された記憶がある。ハンガリー人、いや正式には、マジャール人には、東洋の血が流れているということが、なんともエキゾチックな感じがする。

 

ドナウ川は、世界で2番目に長く、いくつもの国を通る国際河川であるが、そのドナウが貫通する首都は3つあるというウィーン、ブダペストベオグラードの3つ。黒い森から端を発して、黒海へ流れ込むと何とも覚えやすいと思った記憶がある。

 

私はウィーンとブダペストにしか行ったことがないが、ウィーンは真ん中を貫通するというより、北側から中心部よりやや東側に斜めにドナウ(ダニューブ)川が流れている。

 

そして、ブダペストでは首都の中心部の真ん中を北から南へ、ほぼ真っすぐに、まるで主役という感じで、ドナウ川が流れている。

 

そんなこともあって、ドナウ川というと、私はどうしてもブダペストのあのキラキラ輝く水面を思い出さずにはいられない。

 

前段が長くなってしまったが、宮本輝氏の著書「ドナウの旅人」。

主人公麻沙子の母絹子が家を出た。置き手紙にはドナウに沿って旅をするという言葉。

麻沙子は、母を探しに、ドナウの起点となるシュヴァルツヴァルト(黒い森地方)のドナウエッシンゲンにアクセスしやすい、かつて彼女が住んでいたフランクフルトへ向かった。フランクフルトで、かつての恋人シギィと友人ピーターと合流し、ドナウ川下流へ向かって母を探して旅をでることになる。

 

フランクフルトに来てみると母は、ある男といたことがわかる。ドナウ川を下りながら探していたところ、母絹子とその男・長瀬を見つけた。絹子を麻沙子たちに引き渡し、死の旅に出ようと考えていた長瀬をそのまま放ってはおけず、その後、麻沙子、シギィ、絹子、長瀬は4人で旅をつづけた。終着地はルーマニア黒海へそそぐ河口の町。

 

この小説では、ドナウ川沿いの町を経由しながら、物語が展開していく。朝日新聞の連載だったらしく、連載で読んだらどんなに毎回楽しみだったろうと想像する。

なんといっても、宮本輝氏の言葉の一つ一つの優しさが心にしみる。

 

ドナウの旅人(上) (新潮文庫)

ドナウの旅人(下) (新潮文庫)

ドナウの旅人 / 宮本 輝著

東京 :  新潮社  ,1988

上巻 p.298   下巻 p.303

 

 

 

 

 

 

第56号:プラハの春を知るきっかけに・・・『プラハの春』

先週の米原万里さんが子供時代に住んでいたプラハについて書きましたが、以前夢中になって読んだ春江一也さんの本を思い出しました。

 

三部作で、『プラハの春』『ベルリンの秋』『ウィーンの冬』。

最初の2作は、立て続けに夢中で読んで、3作目は発売になるのが楽しみで待っていた記憶があります。

 

外交官で作家だった著者らしく、主人公も外交官で、とてもリアルに描かれていて引き込まれていきました。東西に分かれていたドイツやソ連の政治的なことや、恋愛もストーリーの重要な要素となっていて、どんどん引き込まれます。

 

小説を読むうちに、1968年におこった革命「プラハの春」について、どういうものだったかということがわかります。結果で見ると、革命は失敗だったと片づけられるのかもしれませんが、この「プラハの春」の革命によって、人民による力で、その時の大統領は失脚させられ、”人間の顔をした社会主義”というスローガンのもとに、言論の自由、集会の自由を認めた”行動要綱”というものが作られました。人々は自由を勝ち取った喜びに満ち溢れた時に、ソ連は軍事介入を持って阻止しました。ヴァ―ツラフ広場の戦車が乗り込んできたそうです。

 

それに抗議したカレル大学の学生であったヤン・パラフとヤン・ザイーツがヴァ―ツラフ広場の聖ヴァーツラフ像の前で焼身自殺をしたことはよく知られています。

 

プラハには旧市街広場とそこから少し行ったところに、言われなければ大通りと思ってしまうような長方形のヴァ―ツラフ広場があります。

 

そこを通るたびに、この小説の中でのプラハの春と重ね合わせている私がいました。

子供の頃、今のようにロシアとは呼ばず、ソ連と呼んでいて、バレーボール選手がCCCPというロゴのユニフォームを着ていたことを思い出して、すごく昔の話でないんだと思った記憶があります。

 

プラハに行く前に、一度読んでみてもいいと思います。

 

プラハの春 上 (集英社文庫)

プラハの春 / 春江一也著

東京: 集英社  ,  初版 1997

ベルリンの秋 上 (集英社文庫)

ベルリンの秋 / 春江一也著

東京: 集英社  ,  1999

ウィーンの冬 (上)(下)巻セット (集英社文庫)

 

ウィーンの冬 / 春江一也著

東京: 集英社  ,  2005

 

第55号:ヨーロッパのおへそである中欧のプラハ・・・「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」

昔、私が添乗員をしていたころ。プラハと一緒にベルリン、ドレスデンブダペストと合わせて行くツアーが多く、新しい国に入るときには、その国の歴史の概要を案内していた。

 

歴史といっても、それぞれに長い歴史がある国で、とても全部は話せないので、チェコに入るときには、1400年代のヤン・フス宗教改革と戦後史でもあるプラハの春ペレストロイカに端を発したビロード革命と呼ばれる民主化革命のことを中心にかいつまんで案内していた。それなのに、いまとなってはすっかり内容を忘れてしまった私がいる。

 

今回、以前から薦められていたのに、読まずにいた米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読んだ。米原さんといえば、ロシア語同時通訳として活躍していて、数年前に亡くなられた。

 

米原さんは、日本共産党の幹部だったお父様が国際共産主義運動の編集員としてプラハに赴任していた1960~1964年まで約四年間を在プラハソビエト学校で学んだ。そのソビエト学校には50か国近い国の子弟が通っていたという。米原さんが9歳~14歳の間の時期だった。米原さんの帰国後、1968年にプラハの春が起こっている。

 

この本では、その学校での同級生のリッツァ、アーニャ、ヤースナの3人に、1980年代から1990年代に会いに行くという話が書かれている。

 

リッツァの両親の母国はギリシャ、アーニャはルーマニア、ヤースナは旧ユーゴスラビアボスニアヘルツェゴビナ)だった。

 

それぞれの子供自体のエピソードは個性的で面白い。子供時代とは違い、それぞれ米原さんにとっては意外な人生を辿り、職を得ていた。

 

共産圏であるプラハソビエト学校で、共産・社会主義ゆえに特権階級でなくても医師になれたと語ったリッツァや、ルーマニアチャウシェスク政権の幹部だった両親の特権によって海外に留学できたアーニャ、ソビエトと母国ユーゴスラビアとの関係悪化によって校長と衝突し、ソビエト学校を退学。その後も母国の解体、民族紛争によって翻弄されたヤースナ。米原さんがプラハを離れてからのそれぞれの人生は三者三様に波乱に富み、興味深い。

 

読み終えて、今この文章を書く頃になって、タイトルの『真っ赤な真実』って、そういう意味の「真っ赤」なのね~と我ながら気づくのが遅いなあと思ってしまった。

 

私がプラハの町を好きなのも、ヨーロッパの中心にあるという地政学的理由もあり、大きく翻弄された場所であるにもかかわらず、昔と変わらないカレル橋やブルタヴァ(モルダウ)川、そして百塔の町の美しさが失われないであることに惹かれたのかもしれない。

 

プラハの美しさは、チェコの歴史を知れば知るほど、心に染み入るものがある。

 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 / 米原万里

東京 : 角川書店 , 2001

p283 , 20㎝

 

第54号:和解の家・・・「帰れない山(LE OTTO MONTAGNE)」

本年もよろしくお願いいたします。

昨年末に母が急逝し、ほぼ何も考えることができずに日々が流れていきました。

新年になり少しずつですが、自分自身で日常を取り戻していこうと思い始めた今日この頃です。

 

さて、今年1冊目の本は、すでに12月に入ってから読み始めていた本ですが、イタリア人作家のパオロ・コニェッティ著「帰れない山」です。

 

2016年に本国では発刊され30万部を超えベストセラーになり、イタリアの文学賞の最高峰<ストレーガ賞>なども受賞したそうです。

 

主人公の「僕」(友人ブルーノはのちに彼を「ベリオ」というあだ名で読みました)と両親は、ミラノに住んでおり、夏になると山が好きな両親とともに山に出かけて行っていました。両親は山を愛していましたが、母は低山が好きで、父は自分が踏破したことのない頂を目指して挑戦していくのが好きだったようです。

 

両親は、イタリアのグラーナ村に夏の家を手に入れました。そして、毎年夏になるとグラーナ村の家に出かけていく夏が続きました。母はそのもともとあった家を自分たちの使いやすいように手を入れて行き、父はメーカー勤めの休みの関係もあり、途中から合流し夏を過ごし、「僕」が大きくなってくると、父はその村に住む「僕」よりも1歳年上で、叔父の羊飼いの仕事を手伝う少年ブルーノの二人を連れて、稜線を目指すようになりました。

 

ブルーノは地元の子らしく足も強くたくましく、寡黙な少年でした。学校に通ううこともままならず、「僕」の両親が心配していたこともあり、父は山歩きには彼も連れ出し、徐々に僕と彼は意気投合していき、二人で山を駆け回り遊び、毎夏を過ごすのでした。

 

そんな毎夏の習慣だったグラーナ村通いも、「僕」が大人になっていることと引き換えに、「僕」と父との溝もあり、「僕」だけは足が遠のいてしまいました。

 

それから、何十年か経ち、62歳で父が亡くなり、「僕」は31歳になり、父が「僕」へ残したものに土地の売買契約書と登記書があり、見ても場所もよくわからないが、ブルーノが知っていると母がいい、「僕」は久しぶりにグラーナ村に出かけていきました。

 

ブルーノとの十数年ぶりの再会。彼は昔の印象を残しつつ、たくましく心根のまっすぐな大人になっていました。「僕」は最初は彼との距離を心配していましたが、いつの間にか昔のように心を開くことができ、関係性が変わっていないことを理解しました。

 

「僕」が村に通わなくなってからも両親は毎夏村に通い、ブルーノとは親しく付き合っており、「僕」の話は両親から聞いていたようです。といっても、「僕」は実家のミラノから離れ、トリノに気に入って住んでいたし、ヒマラヤなど海外にも仕事で出かけていて、母へ音信を伝えるものは手紙だったりしたのですが。

 

ブルーノが案内してくれた場所、父が残した土地は、グラーナ村のさらに奥にあるバルマと呼ばれる土地で朽ちている小屋がありました。そこには父の地図があり、踏破したルートに印がつけられていて、「僕」とブルーノと父の3人で踏破したところだけでなく、その後、ブルーノと父が二人だけで歩いた箇所もたくさん記されていました。最初は、そんなブルーノと父の関係に、自分にはなかった関係性を感じ軽く嫉妬もありましたが、次第に自分が失ってしまった父との時間に対しての悔恨の念に変わっていったようです。そして、二人はその朽ちていた小屋を修復していきました。

 

父は「人生のある時点において他人と交わることを放棄し、世界の片隅に自分の居場所を見出し、そこに籠ることにした男」であり、「車で独り死んでいった父には、いなくなったことを悲しんでくれる友もなかった」と「僕」は表現しています。母は、その全く逆の性格の人だったとも。

 

そんな両親が、生まれ育ったヴェネト州の農村を駆け落ち同然で離れたことも、山に関わる悲劇が関係していました。それが、彼の父に影を落としていたことも否めないでしょう。

 

ブルーノは、石工の仕事をしていましたが、叔父の荒れ果てた農場を買い取って、牧場を再建し、ラーラという妻も得て、子供も一人できましたが、牧場経営はうまくいかず破産し、妻とも離婚しました。そして、ブルーノは二人で再建した小屋に住むようになり、冬は雪に閉ざされとても厳しく人を寄せ付けないその場所で暮らし、山を下りないと決めたのでした。

 

詳しくは是非、本を読んでみてください。

 

その主人公ベリオの父が残したその家によって、彼はブルーノと再会し、心を開き、和解し、それだけでなく、生きているときに知りえなかった父・ジョヴァンニ・グアスティについて、この小屋とこの小屋から目指す頂に置いてある踏破したものだけが見ることのできる記帳ノートで知ることで、和解していったのではないかと思います。

 

主人公のベリオは1973年生まれという設定で、私と同い年ということもあり、とても身近に感じました。タイミングとしても、自分の知らないというか、知ろうとしなかった親という一人の人間について、感慨深く考える時間というのも、今の私にとっては実感を持って感じることができます。

 

ここにかかれるグラーナ村が文字通りで、Granaだとすれば、ワインで有名なアスティの北北東の辺に位置していますが、ここからだとモンテローザの麓のアオスタあたりまで、車で2時間くらいかかり、少しイメージと違うかなと思います。

そのため、グラーナ村の場所は判然としません。この小説でも描かれる通り、モンテローザ山群にもっと近いイメージの町だと考えると、このGranaではなく、別にそのような地名があるのかもしれません。もし、お分かりの方がいらっしゃれば、教えてください。

 

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)

帰れない山 / パオロ・コニェッティ著 ; 関口英子訳

東京 : 新潮社 , 2018

271p ,  19㎝. 

著書原綴:   Le otto mongtagne

著者原綴: Paolo Cognetti