umemedaka-style’s diary

本と旅をつなぐブログ

第94号:満洲を知ることはファミリーヒストリーを知ること・・・「満洲ラプソディ:小澤征爾の父・開作の生涯」

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満洲ラプソディ」を読みました。満洲を多民族が共生する理想の国にするために奔走した小澤開作氏(小澤征爾氏の父)のお話です。

 

ストーリーは冒頭、小澤征爾氏が北米でも活躍していた昭和41年に、父である小澤開作夫妻がカナダ・アメリカ旅行に行った際に、開作がケネディ大統領の弟で当時上院議員ロバート・ケネディベトナム戦争終結についての意見を言うためにワシントンに出かけた場面で始まります。開作にとっては、それが一番の旅の目的でした。

 

開作は、23歳の時に故郷の山梨から満洲経由でシベリア鉄道でドイツに留学するために家を出ました。しかし、満洲に着いたところで、中耳炎にかかり足止めされることになりました。結果的に建国間もない満洲に逗まることにしました。その後、長春(その後新京となります)で歯科医として開業。新居を建て妻さくらとの生活が始まります。4人の息子も生まれます。途中、奉天(現在の瀋陽)へ移り、日本に帰国前には北京へ移りました。

 

開作は「五族協和」「王道楽土」という思想を持ち、満洲という新しい国を理想の国にすべく、日本人だけでなく、他の民族の人がともに幸せに生きられる国を作りたいと板垣征四郎石原莞爾らとともに、民間人として尽力しました。小説の中では、開作がどのように満洲へ渡って、どんな思いで大陸で生きていたかが描かれています。

 

開作が亡くなったあと、国交が断絶されていた中国と1972年に日中正常化が行われ、征爾は、開作が再び行きたかった中国の地でタクトを振ります。


ワタクシゴトですが、明治40年生まれの祖父、大正元年生まれだった祖母は、親族が満洲で事業でうまくいっているというので(いまから思えば軍の物資に関連するものだようです)、満洲に渡ったそうです。満洲国が存在したのが昭和7年から終戦の昭和20年までの13年間ですので、おそらく終戦までの7,8年くらいを満州で過ごしたのではないかと思います。我が家は小澤家とは逆ルートで、最初は奉天(現在の瀋陽)、その後終戦まで新京(現在の長春)にいたそうです。開作の妻さくらの旧姓が会津若松の本家の名字と同じだったので、そんなこともあって、私のファミリーヒストリーと重ねてしまいした。

 

少し深読みではあるのですが、この本を読んで知ったことと絡めて考え、フムと思うところがありました。祖父母は東京の生まれですが、祖父はもともと会津若松の武士の家系だったので、朝敵にされた会津藩士は明治政府以降も軍関係でも中心的なところにはいられなかったそうです。そのような理由で、会津藩だけでなく、東北の藩の出身だった人が満洲へ渡ったケースがあったことを初めて知ったのでした。そんなことも祖父が満洲に渡ることに遠因としてあったのかななど考えてしまいました。

 

同居していたので祖母が存命のころ、満洲にいた頃には、満人の人たちとも親しく付きあっていて、とても親切にされたことを私によく話していました。この本で、満洲国建国時代の「五族協和」思想があったことを知り、市井の一部にも広がっていたんだなあと思ったりします。祖母のエピソードには、いろいろ興味深いものがあったのですが、素朴で親切な満人の人々を想像してしまいます。

 

私は、中国に添乗とプライベートで6回ほど行ったことがあります。ミレニアム前後の日本の旅行業界は、空前の中国ブームで、まだ個別にビザを取得しなければ行けない時代でしたが、中国をぐるっとまわるハイライトツアーや上海や北京を単純往復をするツアーによく行っていました。東北省のエリアは、大連にしか行ったことがありませんが、日本統治時代の建物が残っていて、それがとても堅牢にできていて、いまでも利用されており往時を偲ばせるものでした。

 

私も中国人のガイドの人々には、とてもよくしてもらいました。国慶節の時期に行ったときには、雰囲気は華やいでおり、他のツアーのガイドさんも一緒になって白酒(ぱいちゅう)で乾杯したことが印象に残っています。割り勘と言うのが中国ではないので、たくさんごちそうもしてもらいました。祖母が、満人の人たちに親切にしてもらったと言っていたことが同じように感じられた時間でした。

 

満州ラプソディ: 小澤征爾の父・開作の生涯

満洲ラプソディ :小澤征爾の父・開作の生涯 / 江宮 隆之著

東京 : 河出書房新書 , 2018

245p ; 20cm