umemedaka-style’s diary

本と旅をつなぐブログ

第97号:薄氷という名のお菓子・・・「好日絵巻」

森下典子さんの「好日絵巻」を読みました。読みましたというよりも、愛でて楽しんだという方が正しいかもしれません。

 

日日是好日」「好日日記」に続き、この「好日絵巻」は季節ごとに、森下さんが愛しく思う茶器やお茶菓子が描かれています。あとがきで、茶器の多くは、米寿を迎えた森下さんのお茶の師である武田先生がお持ちの茶器で、お菓子もお稽古にあわせて、武田先生が銀座、日本橋まで足をのばされたり、お取り寄せされたものだということがわかります。余談ですが、これ以前の本でも登場するこの武田先生がまた素晴らしいのです。

 

絵巻というタイトル通り、作者の森下さんが描かれた茶器や茶菓子はとても美しく、添えられた文章も美しく、季節ごとにめでたくなる本です。

 

「春」の章の中で、「薄氷」という干菓子がでてきます。「ほんのり甘い」「かすかな音をたてて、口の中でメリッと割れた」というこのお菓子。気になってしかたありませんでした。

 

そこで調べると、富山県小矢部市石動(いするぎ)の銘菓で「薄氷本舗五郎丸屋」さんというお店のお品のようです。加賀の前田家から徳川家の献上菓子として贈られ、茶席での菓子として茶人に愛されてきたそうです。石動は金沢と越中高岡を結ぶ交通の要衝だったそうです。ウェブサイトを見たところ、店構えも老舗らしい、とても素敵な佇まいで、献上菓子として、江戸に運ばれていたというイメージと重なるものでした。

 

もうすぐ冬至です。この本では、「ゆず饅頭」が登場します。

 

お茶をいただきながら、菓子で季節を感じるということ。そんな時間を過ごしたいと思いました。

 

好日絵巻 季節のめぐり、茶室のいろどり

好日絵巻 / 森下 典子著・絵

東京 : パルコ , 2020

125p ; 20cm

 

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

好日日記―季節のように生きる

 

 

 

 

第96号:淡水河の景色・・・「魯肉飯のさえずり」

温又柔さんという著者の「魯肉飯(ロバプン)のさえずり 」 を読みました。ここのところ、新聞の書評でよく紹介されていました。魯肉飯をルーローハンと読むのは中国語で、台湾語ではロバプンだそうです。

 

主人公桃嘉(ももか)は、大学を卒業後すぐに聖司と結婚しました。誠司は美大生だった桃嘉が入った多大学からなるサークルで、かっこよくて人気のある存在でした。就職活動で全滅した桃嘉は、そんな人気のある彼からプロポーズされて、就職することもなく、結婚することにしました。

 

結婚早々、誠司の浮気が発覚。はっきりと彼にも自分の気持ちを言えず、自分の中に溜め込んでしまう性格で、彼との生活に違和感をじわりじわりと募らせています。

 

桃嘉の両親は、父は日本人で、母は台湾人でした。父が台湾転勤中に母と知り合い、日本に帰国する父と伴って、母は日本で新婚生活をスタートしました。そして、桃嘉が生まれました。

 

桃嘉は、聖司とのことを考えていた頃、親友の茜と台北へ旅行することになり、母の故郷である淡水(台北中心部からMRT・捷運で40分)に一人足をのばします。

 

母の姉妹である伯母たちが喜んで迎えてくれました。自分の知らなかった母のことも知り、伯母たちと淡水畔へ出かけていき、河を眺めながら語らいます。

 

桃嘉の母の両親である祖父母は、日本統治時代に生きた人たちなので、日本語ができ、桃嘉の父が母との結婚の申し出をしたときも、祖父は喜んだそうです。伯母たちは「魯肉飯」をもりもり美味しそうに食べる桃嘉の父モキチを見て、これなら大丈夫と思ったそうで、桃嘉が夫の聖司に「魯肉飯」を出したときの反応と桃嘉の失望の対照となるエピソードとして書かれています。

 

桃嘉は、思春期には日本語があまりできなかった母を疎ましく思っていた時期がありました。この淡水への旅で、あらためて異国で暮らした母について、思いを巡らすのでした。自分にいつも優しさと美味しい料理でこころを満たしてくれた母、そして父の包容力を知るのでした。その象徴として母の作る「魯肉飯」という料理が印象的です。

 

台湾が日本統治となったのは、日清戦争講和条約である下関条約(1895年)から第2次世界大戦終わりまでです。戦後(1949年)は蒋介石が中国本土で共産党に破れ、台湾に渡り、中華民国となり、いまに至ります。と最近、日本語教育の歴史を学んでいて、あらためて詳しく知ったのですが・・・約150年の日本だった時代については、日本であまり語られることがないように思います。

 

私は20年くらい前に、淡水に1度だけ行ったことがあります。ガイドさんは、日本語を流暢に喋っていました。そのときに、たしかに日本統治時代があったので、高齢の人は日本語を話せますと言っていて、そうかと思った記憶があります。いまはMRTという電車で、1時間弱で行かれる淡水河畔の観光地でもあります。河口のところでは夕日がきれいに見られて「東洋のベニス」と言われているそうです。 

 

 

魯肉飯のさえずり

魯肉飯のさえずり / 温 又柔著

東京 : 中央公論新社 , 2020

267p ; 20cm

第95号:Seiji Ozawa Matsumoto Festivalに行く前に読んでおきたい1冊・・・「小澤征爾さんと、音楽について話をする」

2011年11月に刊行されていた「小澤征爾さんと、音楽について話をする」をいまさらながら読みました。クラシック音楽についての話が中心で、特に小澤征爾氏がバーンスタイン氏のアシスタントをしていた時代の話、カラヤン氏に師事していた時代の話、また小澤氏が中心となり、スイスレマン湖畔で世界の若手の才能ある音楽家を集めて合宿形式で行われる夏のアカデミーの話など、とても興味深いものがありました。

 

家にあるCDやYoutubeで、この本に出てくる音楽を片っ端からかけながら読書をした時間は本当に至福でした。これが読書の愉しみというのだと思いました。

 

村上氏はクラシックにも(ジャズにも)造詣が深く、素人の私としては、初めて知ることばかりでしたが、指南していただくという感じで音楽を聞きながら、なるほどと思いながら読み進めました。

 

この本は、国内外で場所を変えて数回に渡り行われた対談(もっとリラックスした雰囲気で行われた様子が感じられますが)について書かれています。

 

対談の頃、小澤征爾氏は食道がんの手術を受かられたあとで、やっと回復に向かっているというような状況でした。それまで多忙だった小澤氏がこのような村上氏と語り合う時間が取れたのも、時間をかけて術後療養をする必要がある時期だったということも大きいようです。

 

私個人としては、今回に関しては、村上氏よりも小澤氏に関心があり、2つのアプローチとして読もうと思っていました。

 

1つ目は、前回小澤征爾氏の父である開作氏にまつわる小説「満州ラプソディ」を読んでいたので、開作氏の三男として

2つ目は、世界で活躍するマエストロとして

 

どちらも読了後、裏切りがなかったです。

1つ目については、開作氏が満州で「五族協和」を理想とし、民族の隔てなく付き合っていたという姿と小澤征爾氏が重なりました。カラヤン氏やバーンスタイン氏など超巨匠に可愛がられるだけでなく、気難しい指揮者や音楽監督仲間とも親しくつきあう人柄は開作氏の話と重なりました。

2つ目については、個人的なものですが、私自身、指揮者とオーケストラの様子みたくてコンサートに行くので(そのため席はかぶりつきで前の席に)、小澤氏は指揮者として、こういう風に音楽を捉えるのかなどと素人ながら興味深く読みました。

 

この本の刊行から4年後、松本で例年行われていたサイトウ・キネン・フェスティバル松本(Saito Kinen Festival, SKF)は、2015年にセイジ・オザワ 松本フェスティバル (Seiji Ozawa Matsumoto Festival, OMF)と名前を変えて、開催されています。しかし、2020年は新型コロナウィルスの影響で、フェスティバルは中止となりました。

 

姉が数年前から松本の近くに住んでいるので、松本に行くたびにフェスティバルのポスターを目にして、行きたいなあと思いながら実現せずにいましたが、是非次は行きたいなあと思います。

 

セイジ・オザワ 松本フェスティバルに行く前には、一度この本を読まれてから行くことをお薦めします。

 

小澤征爾さんと、音楽について話をする(新潮文庫)

小澤征爾さんと、音楽について話をする / 小澤征爾村上春樹 共著

東京 : 新潮社 , 2011

375p ; 19cm

 

第94号:満洲を知ることはファミリーヒストリーを知ること・・・「満洲ラプソディ:小澤征爾の父・開作の生涯」

満洲ラプソディ」を読みました。満洲を多民族が共生する理想の国にするために奔走した小澤開作氏(小澤征爾氏の父)のお話です。

 

ストーリーは冒頭、小澤征爾氏が北米でも活躍していた昭和41年に、父である小澤開作夫妻がカナダ・アメリカ旅行に行った際に、開作がケネディ大統領の弟で当時上院議員ロバート・ケネディベトナム戦争終結についての意見を言うためにワシントンに出かけた場面で始まります。開作にとっては、それが一番の旅の目的でした。

 

開作は、23歳の時に故郷の山梨から満洲経由でシベリア鉄道でドイツに留学するために家を出ました。しかし、満洲に着いたところで、中耳炎にかかり足止めされることになりました。結果的に建国間もない満洲に逗まることにしました。その後、長春(その後新京となります)で歯科医として開業。新居を建て妻さくらとの生活が始まります。4人の息子も生まれます。途中、奉天(現在の瀋陽)へ移り、日本に帰国前には北京へ移りました。

 

開作は「五族協和」「王道楽土」という思想を持ち、満洲という新しい国を理想の国にすべく、日本人だけでなく、他の民族の人がともに幸せに生きられる国を作りたいと板垣征四郎石原莞爾らとともに、民間人として尽力しました。小説の中では、開作がどのように満洲へ渡って、どんな思いで大陸で生きていたかが描かれています。

 

開作が亡くなったあと、国交が断絶されていた中国と1972年に日中正常化が行われ、征爾は、開作が再び行きたかった中国の地でタクトを振ります。


ワタクシゴトですが、明治40年生まれの祖父、大正元年生まれだった祖母は、親族が満洲で事業でうまくいっているというので(いまから思えば軍の物資に関連するものだようです)、満洲に渡ったそうです。満洲国が存在したのが昭和7年から終戦の昭和20年までの13年間ですので、おそらく終戦までの7,8年くらいを満州で過ごしたのではないかと思います。我が家は小澤家とは逆ルートで、最初は奉天(現在の瀋陽)、その後終戦まで新京(現在の長春)にいたそうです。開作の妻さくらの旧姓が会津若松の本家の名字と同じだったので、そんなこともあって、私のファミリーヒストリーと重ねてしまいした。

 

少し深読みではあるのですが、この本を読んで知ったことと絡めて考え、フムと思うところがありました。祖父母は東京の生まれですが、祖父はもともと会津若松の武士の家系だったので、朝敵にされた会津藩士は明治政府以降も軍関係でも中心的なところにはいられなかったそうです。そのような理由で、会津藩だけでなく、東北の藩の出身だった人が満洲へ渡ったケースがあったことを初めて知ったのでした。そんなことも祖父が満洲に渡ることに遠因としてあったのかななど考えてしまいました。

 

同居していたので祖母が存命のころ、満洲にいた頃には、満人の人たちとも親しく付きあっていて、とても親切にされたことを私によく話していました。この本で、満洲国建国時代の「五族協和」思想があったことを知り、市井の一部にも広がっていたんだなあと思ったりします。祖母のエピソードには、いろいろ興味深いものがあったのですが、素朴で親切な満人の人々を想像してしまいます。

 

私は、中国に添乗とプライベートで6回ほど行ったことがあります。ミレニアム前後の日本の旅行業界は、空前の中国ブームで、まだ個別にビザを取得しなければ行けない時代でしたが、中国をぐるっとまわるハイライトツアーや上海や北京を単純往復をするツアーによく行っていました。東北省のエリアは、大連にしか行ったことがありませんが、日本統治時代の建物が残っていて、それがとても堅牢にできていて、いまでも利用されており往時を偲ばせるものでした。

 

私も中国人のガイドの人々には、とてもよくしてもらいました。国慶節の時期に行ったときには、雰囲気は華やいでおり、他のツアーのガイドさんも一緒になって白酒(ぱいちゅう)で乾杯したことが印象に残っています。割り勘と言うのが中国ではないので、たくさんごちそうもしてもらいました。祖母が、満人の人たちに親切にしてもらったと言っていたことが同じように感じられた時間でした。

 

満州ラプソディ: 小澤征爾の父・開作の生涯

満洲ラプソディ :小澤征爾の父・開作の生涯 / 江宮 隆之著

東京 : 河出書房新書 , 2018

245p ; 20cm

 

第93号:「アイラ島。シングル・モルトの聖地巡礼」・・・『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

先日「村上T」でジュラ島の蒸溜所のことを書いたところ、1999年に刊行されたこの本『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』のことを友人が教えてくれました。私はこの本はまだ読んでおらずスルーしていたようです。

 

「村上T」でもジュラ島とともにアイラ島シングル・モルトの話は出てきて、その旅で2つの島を一緒に旅したことが書かれていました。アイラ島には7つの蒸溜所があり、その蒸溜所の中の「ボウモワ」と「ラフロイグ」の蒸溜所を村上さんは見学したそうです。この本が刊行されたあとの2005年に、もう1つ「キルホーマン」という蒸溜所ができ、現在アイラ島の蒸溜所は8つになっているようです。

 

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滞在中に、村上さんはその7つの蒸溜所のシングル・モルトをもちろん試していて、「『癖のある』順番」に記載しているところも面白いです。

 

それぞれの蒸溜所で、ディスティングレシピ(簡単に言うと、蒸溜のためのレシピ)があり、グレイン(穀粒)、水の質、樽、ピート(泥炭)の使い方、寝かせ方などそれぞれに違っており、「哲学があるのだろう」と書かれています。

 

アイラ島の厳しい自然の中で、潮風にも揉まれ、時間をかけて寝かされるとさてどんな風味なのか、気になってしかたありません。

 

そして、生牡蠣にシングルモルトをかけて食べるという「島独特の食べ方」があるといいます。「たまらなくうまい」そうです。あー、と思わずため息がでます。

 

いますぐにでも品揃えのいい酒屋に向かいたくなるのですが、でもこの本のあとがきにあるように「うまい酒は旅をしない」。産地であるからこそ味わえるものがあるということでしょう。村上さんの言葉を借りれば、産地から離れれば離れるほど、「その酒を成立せしめている何かがちょっとずつ揺らいでいく」ということなのでしょう。

 

お酒を飲むとそのお酒ができた小さな島や小さな町のバー、そのときの空気、人々など様々な情景を思い出すというようなことが書いてあり、それはウィスキーに限らず、他のお酒でもいえることだなあとしみじみ思いました。旅行の仕事に携わる私の心にしみます。

 

最後のしめくくりとして、あとがきの最後の言葉を引用させてもらいます。

旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。人の心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするのだろう?

    本書あとがき『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』より引用

 

 

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

<単行本の書誌データ>

もし僕らのことばがウィスキーであったなら / 村上 春樹著;村上 陽子写真

東京 : 平凡社 , 1999

119p ; 20cm

 

 

第92号:ブラジルのヤマに暮らす人々・・・「赤い砂を蹴る」

ワタクシゴトですが、先日まで大規模試験に向けた勉強をしており、それがやっと終わりまして、♫酒が飲める 酒が飲める 酒が飲めるぞ~♫ ならぬ、♫本が読める 本が読める 本が読めるぞ~♫と歌いたくなるほどでした。今回、試験明けに一気読みをしたのが、石原燃さんの「赤い砂を蹴る」です。

 

主人公の私(千夏)が母恭子の友人だった芽衣子と二人、芽衣子が二十歳まで過ごしたブラジルのサンパウロ州にあるミランドロスへ旅する話です。

 

千夏は母を亡くし、芽衣子は夫を亡くしたあとの旅でした。サンパウロ州と言っても、サンパウロ空港からバスで9-10時間かかるというミランドロス。私は初めてその地名を聞きましたが、実際に存在しています。

 

その地に香月農場という日系人のコロニアがあり、そこで芽衣子は生まれ育ち、結婚を機に日本へ来ました。農場の人たちは自分たちの農場を「ヤマ」と呼び、多い時には300人ほど、いまは60人ほど暮らしていたとされています。

 

2人はこのブラジルへの旅の中で、それぞれにいままでの出来事を回想し、千夏はいままで気づかなかった母の想いを感じたり、芽衣子は自分の嫁いだ家族のそれぞれの複雑な想いを千夏に語ることで、言葉にしてみたりします。それは、とても辛い記憶であったり、重いものでもあります。

 

旅に出ることによって、いつもと違う時間の中で、ましてや移動するだけでも何十時間もかかる旅の道中には、忙しい日々の中で考える時間がなかったことや考えないようにしていたこともじっくりと考えることできたりします。

 

この物語もまさに、そんな長い道中があって、引き出されたような気がします。交錯する記憶や思い、主人公の中でいろいろな映像が重なり合うような感じは、なにかこたえを探し出そうとしている主人公の心の揺らめきのように私には感じました。そんな主人公と、母を亡くした私も少し自分と重ねてしまいました。

 

さて、ブラジルへ移民として渡った人々がこのようなコロニアで生活しているケースもあるんだ(いや、こういうコロニアが一般的なのか??)と、小説とはいえ、興味深いものでした。題名の”赤い砂”というのはこの土地の色ですが、農場の周辺にあるというさとうきび畑とともに、”赤い砂”とは、どんな色なのだろうと想像してしまいます。

 

私自身はブラジルには行きたいと思いつつ、機会を逃していました。リオのカーニバルも行ってみたいなあ。ボサノバも大好きだけど、イタリアでカンツォーネの話をすると、「あー、古い曲ね」と言われるように、ブラジルでも、ボサノバはそんな風に言われちゃうのかななどと、気になりながらいます。

 

赤い砂を蹴る (文春e-book)

赤い砂を蹴る / 石原 燃著

東京 : 文藝春秋 ,  2020

158p  ; 20cm

 

第91号:豊かさについて考える・・・「ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が『豊か』なのか」

2019年2月に刊行された「ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が『豊か』なのか」を読んだ。来週に試験が迫っているのに、つい手元に届いたので、一気読みしてしまった。

 

タイトルがセンセーショナルなので、つい読んでみたくなる本である。年290万円とはドイツ人の平均可処分所得だと言う。

 

でも、このような欧州の国との比較系の本はたくさん読んでいるので、「結局、社会制度が違うから違うのよね」と完結する本だったら嫌だなあと思いながら読んだが、そこよりもドイツ人のメンタリティー中心で、プラス社会制度について書かれていたので、好感が持たれた。

 

著者は、昨年時点で、ドイツに住みはじめて29年になるという。現在、ミュンヘン在住。日本に居るときには寝る間も惜しむように忙しく働く記者生活を送っていた時代もあったようだ。だからこそ、日本との比較も的を得ていた。

 

ドイツはGDP国内総生産は、日本よりも順位が下であるが、国民一人あたりの労働生産性では日本のかなり上を行く。単純に言えば、労働時間が短いのに、生産効率がいいということになる。

 

労使交渉がちゃんと行われるドイツ。本書記載の産業別労組IGメタルの労使交渉では、育児・介護などによる2年間を週35時間→28時間、年間追加給与の代わりに有給8日間(もちろん従来も有給消化率はほぼ100%)を増やすことができるという内容を盛り込んで合意したという。最近は、アンケートによるとお金よりも休みを選ぶ人が多いことも述べている。

 

制度面で羨ましいというだけではありきたりであるが、日本のサービスはお客様ありきで、過剰な部分が多く、それがかえって労働者の長時間労働を(ストレスも)招く結果になっていると言う。

 

ドイツは徹底して、「サービスは有料」という概念が叩き込まれているし、倹約家の多いドイツでは、別途チップなどのサービスの対価を払わないように自分でできることは自分でするという習慣がついているという。

 

日本のサービスは、お客様に寄り添い、親切、丁寧。宅配は2,3時間おきの時間指定の受け取りができ、ほぼ遅れることはない。コンビニは24時間営業している。不便とはかけ離れた生活。

 

サービスされる側が嫌な目に合わさせるというのは、日本ではまず皆無に近い。でもドイツは、お客よりも店の規則優先なので、分業スタイルで手が空いている人が他の人のサポートに回ったりもしないので、お客は待たされたり、サービスは悪くて、不便。

 

でも、無料の過剰サービスで時間を取られたら、日本のように生産性は悪いのは当たり前。利用者がドイツのように「サービスに期待しない」という日が来るのは、日本人にとっては難しいかもしれない。もちろん、日本のサービスの優秀さ、利用者に取っていいところが十分にある。

 

しかし、著者が言うように、過剰なサービスは不要だと思う。「そこそこの~」ということを目指してみてもいいと思う。 

 

著者の住むミュンヘンを思いながら読んでいた。次の旅は、夏にミュンヘンだけに行くのもいいなあと考えたり。

 

アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテークにも、BMW博物館にも行きたいなあ。ガルミュッシュ・パルテンキルヒェンに足を延ばし、ドイツ最高峰のツークシュピッツェに列車で上がってみたい。夜はビアホールで地元のビールを飲んで。

 

そうそう、ドイツには「労働時間口座」というのがあって、7時間以上働くとプラスで、少ないとマイナスで記載されるという。それを読んで、ガルミュッシュ・パルテンキルヒェン生まれだというミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出してしまった。

 

「豊かさ」とはなんだろうと改めて考える。お金やモノがさしてなくても、「自由時間」があるということは、ドイツ人だけでなく、日本人も求めている真理なのではないかと思う。時間があれば、自分の大切なものにその時間を使うだろう。

 

この本が刊行されたあと、くしくもコロナ禍となり、思いがけない自由時間ができた。日本も少しづつ変化するかもしれない。

 

いつのまにか、お金と引き替えに時間泥棒に、時間を売ってしまわないように。 

 

 

ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか (青春新書インテリジェンス)

ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が『豊か』なのか / 熊谷 徹著

東京 : 青春出版社 , 2019

187p ; 18cm

 

モモ (岩波少年文庫)