umemedaka-style’s diary

本と旅をつなぐブログ

第38号:壇奇放(泡)亭が住んだサンタクルス・・・「火宅の人」そして「壇」

先週は、お休みしまして大変失礼しました。

2月末から3月上旬にかけて、ヨーロッパは天候が大荒れでしたが、ようやく天候が回復してきた先週あたり、私の担当するお客様がどのグループも、バルセロナ、ロンドン、パリ、フィレンツェ、ローマ等に旅に出たところで、現地の情報を気になりながら、日本で過ごしていました。フライトの遅れもなく、トラブルもなく帰国されると、そのたびにほっとするという日々を送っていた先週でした。

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さて、話は変わりますが、春めいてくると、ポルトガルに行きたいなーとここ最近思っていて、来年の3月にはポルトガルに行くことをひそかに計画中です。ポルトガルは私にとっては、ヨーロッパの中でも一足先に春が来るというイメージです。

 

昭和50年に発刊された壇一雄著の「火宅の人」。今ではなんで読むことにしたのかわかりません。この本を読んだころ、池波正太郎新田次郎のエッセイ的なものもはまっていたので、そういう時期だったのかもしれません。

 

「火宅の人」は自伝的小説と言われていますが、あくまでも小説だと思いつつも、この壇一雄という人、妻や家族を置いて、愛人と東京で同棲、飽きると二人で旅にでる生活。ここだけ聞くと、今の不寛容社会ではまったく許されないのだろうけれど・・・。

 

最後にはこの小説で、主人公は愛人とも別れ、かりそめの愛人にも捨てられ、安ホテルで一人侘しい生活。「なーんだ!オレ、ヒトリボッチ!」というセリフが出てきて、思わず笑ってしまいます。

 

「火宅の人」は一気に書かれたものではなく、長年にわたって部分的に書かれたものを一冊にまとめたようです。豪快にして、繊細な一面を持つ壇一雄。美食と女と酒を愛した昭和の大作家。いつでもだれかにぬくもりを求めていた。金は右から左へ、飽きれば旅に出た。

 

奇遇にも祖母と同じ明治45年2月生まれだったので、私にとっては、壇一雄のこの自伝的小説にでてくる主人公のきっぷの良い生き方や、当時の風俗や東京の様子が祖母の生きた時間を知るうえで興味深かったのかもしれません。

 

平成7年に、沢木耕太郎著の「壇」は、70代になった妻が口述したという形式で書かれている小説で、「火宅の人」と合わせて是非読みたい1冊。

 

「火宅の人」への反論もあり、「火宅の人」のエピソードと並行して、小説という形で書かれています。主人公は桂一雄という名で登場します。この小説の終わりの部分では、「火宅の人」では書かれなかった主人公桂一雄(壇)の最期の日々が書かれています。日本を離れてヨーロッパの旅に出て、1年半ほど、ポルトガルサンタクルスという鄙びた漁村を気に入って居を構えた主人公。

 

ポルトガル行きの前から気になっていた主人公桂の体の不調は帰国後、徐々にひどくなり、福岡の対岸にある能古島で、期せずして療養生活になってしまいました。この島を気に入り、家まで購入しましたが、その後福岡の病院に入院することになり、東京には戻ることはできなかったといいます。

 

この「壇」の後半では、憑き物が落ちたようなやけにすっきりした主人公がいます。そして、この小説では、飽きっぽくて、熱しやすく、冷めやすく、今の自分から脱出したくて次々と夢見るという夫の性格を見抜いていて、それを受けいれた妻の聡明さにも脱帽してしまいます。

 

実際の壇がこの小説のようであったとすれば、そんな憑き物が落ちたあとの壇だからこそ、この鄙びた、当時何にもなかったであろうサンタクルスをとても気に入ったのではないかと思いました。

 

火宅の人 (上巻) (新潮文庫)

火宅の人 (下) (新潮文庫)

火宅の人 / 壇一雄

東京 : 新潮社 ,1981

15㎝ ; 上巻478p 下巻476p

檀 (新潮文庫)

壇 / 沢木 耕太郎著

東京 : 新潮社 ,2000

284p ; 16㎝

第37号:「存在の耐えられない軽さ」のプラハ、そして今

先日、NHKで「チョイ住みプラハ」という番組がやっていて、この番組は俳優やミュージシャン、料理人といったその世界で長年活躍してきた年配者と若手俳優が1週間程、海外のとある町で共同生活をするという番組。自炊をして、その町で名物を食べて、地元の人とふれあって、住むように暮らしてみるという内容で、だいたい対照的な全く違うタイプの2人の組み合わせで、なかなか面白い。この回も、若手俳優とミュージシャン(ELTのいっくん)が出ていた。

 

今のプラハの町は、美しく活気があって、出演者の二人がクリスマスマーケットの行われているの旧市街広場で、その美しさに感嘆の声をあげる。思わず見ている視聴者も私のようにうっとりしてると想像できてしまう。

 

ちょうど、プラハへ行くお客様の手配もしていて、いろいろプラハの本も改めて読んだりしていた。そして、以前読んだミシェル・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」や春江一也著「プラハの春」のメモを見返してみた。

 

美しいプラハが第2次大戦後、東西に分かれ、東側の国として共産圏に入り、「プラハの春」やいくつかの民主化のための革命が起きては、失敗し、暗い影をまとった時代が長く続いたことをプラハに行く考えたりする。旧市街の中に突如視界の開けるヴァ―ツラフ広場に立つたびに、革命時にソ連の戦車が武力介入したという話を幾度となく想像してみたりした。

 

1929年チェコスロバキア時代のブルノ出身のクンデラはパリで執筆している。彼もプラハの春のあと、ドプチェクが退陣し、ソ連のブレジネフ政権の傀儡政権となったフサーク大統領の‘再生’の時代に祖国を捨てざる得なかった。1998年の日本での文庫化の時代にもチェコではこの小説が出版されていない。

 

ストーリーはプラハで外科医だったトマーシュは前妻との間に子供が生まれてすぐに離婚した。彼の息子に会うために筋金入りの共産主義者の前妻に暴言をはかれてまで会う気はなかった。そして自分の人生と息子を決別した。


ある日、彼の上司の外科部長がいくはずの郊外での急患者に彼が出向くことになった。そこで彼の泊ったホテルのレストランで働くテレザと遭遇した。テレザの身の上はあまり幸せとは言えなかった。テレザの母は美しかったが、男らしさだけが取り柄の女ったらしの夫と結婚し、テレザが生れた。母はその父のもとを離れ、新しい夫と再婚しテレザのほかに兄弟がたくさんできた。母はテレザにつらく当たり、成績が一番良かった彼女は周りに残念がられたが、高校を途中でやめさせられた。彼女は兄弟たちの面倒をよく見た。恥も感じず、醜い姿をさらす母を自分の容姿に見るのは耐えられなかった。トマーシュとの偶然と必然の入り混じるような出会いに踏み出さずにはいられなかった。

 

トマーシュが渡した住所に重いトランクを持ち、母の家を飛び出し、向かわざる得なかった。トマーシュは離婚後、どの愛人も家には泊らせず、ある程度の距離を置いていた。テレザが突然押し掛けたときにも同じように接するはずだった。しかし、彼女はその日に熱をだし、彼の脇に寝ていた。不思議だった。

 

トマーシュの愛人であったサビナは画家で、彼をもっともよく理解した人物だった。彼女は修道院で教育を受けた後、父に共産党への入党を勧められた。彼女は絵を描き始めたが、本当はキュービズムのような抽象画を描きたかったが。その時代、形のないものを描くことは認められなかった。彼女はトマーシュと時々関係を持った。テレザはサビナにより週刊誌の写真係からカメラマンの仕事を紹介してもらったが、彼女にトマーシュのことで嫉妬した。

 

プラハの春の失敗の後、サビナはスイスへ出国した。トマーシュとテレザと犬のカレーニンとともにスイスのジュネーブへ出国した。平和なスイスでトマーシュはまた医師になった。しかし、すでにチェコでのことはこの国では関心事でなかった。テレザは園芸のカメラマンの仕事を勧められたが断った。そして、言葉の通じない国でトマーシュの帰りを待った。トマーシュの女癖は治らなかった。そして、テレザはプラハに戻った。

 

トマーシュは、また祖国に戻ることが意味することを考えて悩んだが、テレザを追いかけた。サビナはジュネーブを去り、パリからアメリカに渡った。

 

トマーシュは以前のオイディプスオイディプスは知らないうちに実の父を殺し、実の母と関係を持っていたことをしり、自分の目を刺し、旅立った。知らなければ許されるということはないということを彼は書いた。)の記事が当局に見つかり、撤回しなかったために職を失った。

 

テレザはバー働き、トマーシュは窓ふきになった。医師には戻れなかった。プラハを出て、自分たちで農産物をつくり暮らす田舎の農村で生きることに決めた。その農村でトマーシュとテレザとカレーニンや穏やかに暮らした。共産党は地方の農村をすでに見放していたため、彼らは当局の目を気にせず生きられた。そして、二人の死。

 

タイトルの『存在の耐えられない軽さ』という言葉はサビナの言葉でのみ、具体化されていた。サビナはこのスト―リーのキーになっている。

 

このタイトルがあるゆえに、読者は読みながら、作者の意図に思いめぐらせながら読むという感じになる。

 

それにしても、西側の国では、チェコの存在を忘れたように人々が自由に暮らし、祖国に戻ることにしたチェコ人は医師としても仕事を失い、当局の目が届かない地方の農村で暮らすことで、やっと普通に生きられる。

 

人間が自由を手にできるというのは素晴らしいことで、時代の流れの中で、自分の思いとは関係なく危うくなることを考えさせられる。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ / ミラン・クンデラ著 ; 千野 榮一訳

東京 : 集英社 ,  1998

400p , 15㎝

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

 

 

 

第36号:私の「悲しみよこんにちは」のイメージ・・・サン・トロペ

今日は、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」(BONJOUR TRISTESSE)。

 

悲しみよこんにちは」と聞いて、斉藤由貴さんの曲のメロディラインがぱっと思い浮かぶのはおそらく40overの方ではないでしょうか。

 

 

フランソワーズ・サガンが1954年に、この作品をかいたのは18歳の時。そう考えると本当に天才だと思います。

 

主人公のセシルは17歳で、その父はヤモメで『年齢のない男達たち』と表現しているように、若々しく、女たらし。その父とセシルは2人で自由で陽気で愉快に暮らしていました。

 

その年の夏はパリから移動して南仏の別荘で起きた出来事がこの話の中心となります。その別荘では、セシルと父と父の愛人エルザとの3人奇妙な生活が始まり、そこに亡き母の友人だった42歳のアンヌが現れ、その知性的で聡明で、洗練されたアンヌと父が一夜のうちに結婚を決めてしまいます。セシルは父とアンヌを引き離そうとし、策略のシナリオを考え、彼氏であるシリルと父に振られた愛人エルザと共謀して、それを実行します。

 

その続きは書きませんが、なかなか面白い展開で、先が気になる話です。

 

それにしても、18歳でこれを書いたってすごい。その当時のサガンがこの話に出てくるセシルそのもので、シニックで、クールで、知的で大人びているけれど、体は子供らしいそんな少女のような大人のような女性だったのかなと想像してしまいます。

 

主人公セシルは大人びたところと、ずる賢さと、父離れできない子供なところを持ち合わせていて、モラトリアムから抜け出せない少女がこの夏の経験によって、深く考えさせられ大人になっていく心情の表現が素晴らしいと思いました。

 

さらに、この小説の舞台背景もいかにも粋に暮らす、美しいパリジャンたちが描かれていて、南仏でのバカンスの生活ぶりが今から50年以上も前というのに古さを感じさせない鮮やかさを放っていて、さすがフランス文学という感じがしてしまいました。

 

 

この小説の中に、南仏とあるだけで、たしか具体的には別荘の場所を書いていなかったと思いますが、私の中では、サン・トロペのイメージがぴったりです。

 

サン・トロペといえば、ブリジッド・バルドーことBEBEが 愛した❝タルト・トロペジェンヌ❞というスイーツが有名ですね。ブリオッシュに、カスタードクリームが挟んであって、奇をてらわないおいしさ。素直にぜったい外さないって感じのスイーツです。

 

サガンもサン・トロペにはよく来ていたらしく、そういうイメージがこの小説と重なるのです。あくまでも私のイメージです。

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは / フランソワーズ サガン 著 ; 河野 万里子 訳

東京 : 新潮社 , 2008

p197 ; 16cm

著者原綴: Francoise Sagan

 

第35号:ケレット氏が教えてくれた少し前のザグレブ・・・「あの素晴らしき七年」

イスラエルのテルアビブ生まれで在住のエトガル・ケレット著の「あの素晴らしき七年」。この本にたどり着いたのは、なぜだろうと思い返していたが、結局わからなかった。去年の私の手帳の読みたい本のリストにこの本の名前が書かれていた。

 

ケレット氏の本は、イスラエルだけでなく、世界中で翻訳され、アメリカでもとても人気のある作家のようだ。私は彼の本を読んだのは、これが初めてだった。

 

彼のエッセイは、サラっとしていて、ときにユーモラス、そして、はっとさせられる。私が好きなタイプの作家だった。

 

彼は世界を股にかけという感じで、各地のブックフェスやブックイベントに出かけている。このエッセイの中には、家族の話、現在も爆撃やテロのあるイスラエルのこと、仕事で出かけた町でのこと、ユダヤ人の風習や行事、ポーランドにルーツを持つユダヤ人が東ヨーロッパに出かけることなどが書かれていて、日本にいるとユダヤ人への偏見というものが、まずないので、実際には当事者たちにはそういうものが感じられる世界がいまだにあることに、驚かざる得ない。さらっとしたエッセイを読みながら、私は自分の無知を感じることが多くあった。

 

ケレット氏の息子が生まれた年から、ポーランドホロコーストを生き抜いた父が亡くなるまでの7年間を1年ごとに区切り、短いエッセイがいくつか挟み込まれている。

 

たくさん興味深い文章があるが、その中の1つ。「六年目」のところで、クロアチアザグレブで、作家フェスがあり、出かけて行った時のことが書かれている。

 

フェスの後、文化プロジェクトの一環で、地元の美術館に一泊することを承諾してしまっていたケレット氏。あまり気乗りしない感じで出かけたが、巨大な部屋には、予想外に綺麗に寝具をセットしたベッドが用意してあったが、イベントが終わり、地元のバーで飲んだ後の彼は疲れとともにぐっすり眠るのかと思いきや、美術館の中を見て回った。

 

そして、1994年の(内戦のころ)ボスニアの美しい少女と、そこに書き殴られた国連保護軍のオランダ兵が残したスプレーでの(ショッキングな)落書きをみて、ザグレブのカフェのウェイターが話してくれたことを思い出す。

戦争中店に入ってくる人々は、コーヒーを注文するちょうどいい言葉を見つけるのに難儀したのだという。「コーヒー」を指す言葉はクロアチア語ボスニア語とセルビア語でそれぞれ異なっていたため、それぞれの言語では他意のない言葉の選択も、険悪な政治的含意があるように受け取られかねなかったのだそうだ。「トラブルを避けるためにですね」とウェイターは説明してくれた。「みんなエスプレッソを注文しはじめました。それなら中立なイタリアの言葉ですから。そして一夜にして、ここではコーヒーではなくエスプレッソのみを出すようになったんです」

 

オープンカフェの立ち並ぶ、ザグレブのメインストリート・トゥカルチチェヴァ通りを思い出しながら、ケレット氏が少女の写真をみながら考えたという「ぼくが住んでいる場所と今いる場所での外国人嫌悪と差別ついて」とはどういうことだろうと考える。そして、ザグレブに行っても知らなかった事実について考える。

 

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 / エトガル・ケレット著 ; 秋元 孝文訳

東京 : 新潮社 ,  2016

p190 ; 20cm

 

 

 

 

 

 

第34号:やっぱり、ローマ?・・・「遠い太鼓」

この村上春樹さんの『遠い太鼓』は1986年からの3年間、村上春樹さん(正確にいうと村上さんご夫妻)がヨーロッパで暮らした時のことが描かれている。この期間に長編では『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』と短編では『TVピープル』を書いたという。

 

村上さんは40を前に、日本を離れた。1986年の10月からローマ、ギリシャアテネ、スペッツェス島、冬のミコノス。翌1987年、シシリー、ローマ、ボローニャギリシャパトラス、ミコノスからクレタヘルシンキ、ローマ、アテネラソン、カヴォラ(テサロニキから3時間)、レスボス島、またローマ。ロンドン、また、ひとりローマ。1988年の空白の1年の間に、40歳の誕生日。1989年、ローマ、ロードス、ハルキ島、カルパドス島、トスカーナキャンティオーストリアザルツブルク音楽祭、チロル街道、ロイッテ~秋、旅の終わり。

 

と、ざっと書いたけれど、ほんとうにこの本は読んでいて楽しかったし、珍しく村上さんの本でゲラゲラ笑いながら読んだ本。面白かった。

 

そして、旅は3年の間に、ずっと行ったきりの旅ではないので、途切れながらも必ずローマは入っていて、やっぱりローマに帰りたくなるのよねと思いながら読んだ記憶がある。

 

私はこの本を読んだ頃、33歳になって、老舗の旅行会社に転職した頃、どう人生の駒を進めていいのか、いつも傍らに悩みを抱えていた気がする。そんな中、この本を読んで、40を前にして日本を離れることにした37歳の村上さんの気持ちがなんとなくわかるような気になっていた気がする。

 

そして、村上さんの言葉にはっとさせられた。でも、いま読んでも、はっとさせられるのだ。

 

四十歳というのは、僕にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてから)ずっと考えていた。

 

<中略>

 

 四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくこのなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。試してはみたけれどやはり気に入らないので、もう一度以前の状態に復帰します。ということはできない。それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。

 精神的な組み換えというのは、おそらくこういうことではないだろうかと僕は思った。四十という分水嶺を越えることによって、つまり一段階歳を取ることによって、それまでは出来なかったことができるようになるかもしれない。それはそれですばらしいことだ。もちろん。でも同時にこうも思った。その新しい獲得物と引き換えに、それまで比較的簡単にできると思ってやっていたことが出来なくなってしまうのではないかと。

 

<中略>

 

歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳はとる。それはしかたのないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終ってしまうことだ。それは仕方のないことではない。

 

私もそろそろ旅に出なくちゃだめだなと思う。

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 / 村上 春樹 著

東京 :  講談社 , 1993
570p ; 15㎝

 

第33号:ゴッホ終焉の地オーヴェール・シュル・オワーズ・・・「たゆたえども沈まず」 

2017年10月に単行本化された原田マハさんの小説「たゆたえども沈まず」。

揺蕩う(たゆたう)という言葉は、あまり使わないが、「物がゆらゆら動いて定まらない。ただよう。」ようすを表す言葉で、「動揺する」「ためらう」など、心の動きも表す言葉である。

 

この言葉は、この小説の中では、研究家のシキバ氏が登場するプロローグの部分と、ゴッホが描きたかたセーヌ川になぞりながら「たゆたいはしても、決して流されることなく、沈むことのない。……そんな船に。」と再起をはかったゴッホに語りかけたする林のセリフとして登場する。

 

この小説の舞台は主にパリで、日本からパリにわたり日本の古美術の販売を行ったパリの日本人林忠正の商いを手伝うために渡仏した後輩の加納重吉を中心に語られる。重吉は、フィンセント・ファン・ゴッホの弟で、林の経営する『若井・林商会』と競合するとも言える画商『グーピル商会』に勤めるテオこと、テトオドロスと出会い、二人は気が合い個人的な付き合いがスタートする。そうしている間に、絵を描いているという兄フィンセントとも出会うことになり、林とともにゴッホ兄弟と交友を深めていく。

 

フィンセントの絵は、まだ印象派でさえ、やっと認められ始めたばかりの19世紀後半にはまだ早かった。彼は、誰にも評価されず、悶々と暮らしていた。そして、日本の浮世絵に傾倒した彼は日本に行きたがったと言う。林の助言でアルルで、日本を見出すべく移り住んだが、ゴーギャンとも仲たがいし、耳切事件などトラブルを起こし、サンレミ療養院での精神療養などを経て、画家たちを支援し、自らも絵を描いたガシェ医師が住むパリの郊外オーヴェール・シュル・オワーズに移ることになる。

 

小説の中では、オーヴェール・シュル・オワーズに行く途中、パリに立ち寄り、結婚して子供が生まれたばかりのテオの家に3日間ばかり滞在して、オーヴェールに向かっていく場面が後半に出てくる。そして、オーヴェールに移って、2か月少しで、フィンセントがオーヴェールで銃で胸を打ち、瀕死の状態となり、テオが急いで出かけていき、最期を看取ったとされている。

 

私がオーヴェール・シュル・オワーズを訪れたのは、もう10年近く前のこと。セーヌの支流であるオワーズ川のほとりにある静かな美しい村である。(画像はそのときのもの)

 

そこに行く前に、すでにゴッホの絵は、パリの美術館やクレラーミュラーゴッホ美術館で見ていたので、とても感激した記憶がある。

 

この小説の冒頭にも出てくる、ゴッホが寝泊まりしていたラブー亭に立ち寄り、オーヴェールの教会や坂道、カラスの飛ぶ麦畑、フィンセントとゴッホの墓、そしてオワーズ川にも立ち寄ったことは、いつまでも記憶から離れることはない。

 

あの「カラスの飛ぶ麦畑」の印象は忘れがたい。ゴッホの描いた絵そのままで全く変わらず、そして何か胸に迫るものがあったからだ。

 

そして、この小説を読んで、またあの時の記憶がありありと蘇ってきた。ゴッホが自分で銃を撃った場所はいまだはっきりしていないが、私はあの村を歩いて、ここではないかと感じてしまう場所があったことも。

 

もう一度、オーヴェールを歩きたい。

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オーヴェール

 オーヴェル・シュル・オワーズに行ったときの写真

一番上:ゴッホが描いた「オーヴェールの教会」

二番目:ゴッホが「カラスのいる麦畑」を描いたとされる畑 カラスはビニールの紐付き模型。風でまるでカラスが飛んでいるように見える

三番目:ゴッホと弟テオのお墓

 

たゆたえども沈まず

たゆたえども沈まず / 原田マハ

東京 : 幻冬舎 , 2017

408p ; 20㎝

 

 

第32号:パリの元“ムルロー工房”・・・「ロマンシェ」

原田マハさんの「ロマンシェ」は、ラブストーリーと聞いて読み始めた気がするけれど、少しコメディタッチで奇想天外なストーリーの中に、パリのリトグラフ工房 “idem ”が出てきて、その絡め方が上手だなと思ってしまった。

 

主人公の美智之輔は美大を卒業して、美大時代の憧れの同級生高瀬♂に思いを伝えられないまま、パリに留学にきた。かつて日本のアルバイト先のカフェで出会った超人気ハードボイルド小説の作者羽生美晴♀と偶然再会。美晴は訳あって、歴史あるリトグラフ工房“ idem ”に匿われていた。

 

そのリトグラフ工房“ idem ”はパリのモンパルナス界隈にあって、かつて“ムルロー工房”と呼ばれていた。長年ピカソなどの有名な芸術家の作品のリトグラフを職人たちの手でプレス機を使い、製作してきた。

 

今まで、深く考えることなしに、漠然とリトグラフ=複製くらいにしか思っていなかった私はこの本を読んで、リトグラフの奥深さに驚き、少し反省した。

 

この本を読んだのは2016年初頭の出版されて間もないころで、この本の出版と合わせて、東京ステーションギャラリーで、「idem展」(2015.12.4~2016.2.7)という企画展が行われていた。作中で、美智之輔が憧れていた高瀬が企画したことになっていて、この小説を読んで、さらに2度楽しめるような仕組みになっていた。

 

それから、月日が流れて、昨年2017年の夏頃、私はフランスの広告ポスターを描いていた、晩年フランスのトゥルーヴィル(ドーヴィルの対岸)に住んでいたレイモン・サヴィニャックリトグラフを手に入れた。

 

そして、その1980年代のリトグラフも、この“idem ”こと、元“ムルロー工房”で刷られたものだった。この本を読んだときに感じた奥深さもすっかり忘れ、リトグラフを買うう頃になって、リトグラフというものの特性をあらためて知ることになった。

 

美術展でポスターや絵葉書を私はよく買い、気に入ったものを部屋に飾ることが結構あるが、何年かすると驚くほどに色褪せしている。でも、リトグラフは、色褪せないように作られている。もちろん、値段も一般的なプリントやオフセット印刷よりも高い。

 

原画を買うことまではできなくても、もっと手軽に、原画に近いものを自分の近くに置き、長年にわたり日々楽しみたいという庶民のニーズがリトグラフができたことによって実現されたと思う。

 

今は私自身、このサヴィニャックリトグラフを購入したことで、この本を読んでいるときに感じたリトグラフの奥深さをリアルに体験できていると思う。

 

ロマンシエ

ロマンシェ /  原田 マハ著

東京 : 小学館 , 2015

333p ; 19cm